中小企業を社会のなかにどう位置づけるか
こうして鋤柄氏が取り組むことになるのが、「中小企業憲章」制定運動であり、「中小企業振興基本条例」制定運動である。ここではまず「中小企業憲章」に関して記すことにする。
鋤柄氏は、「中小企業憲章」と早い段階から関係をもった同友会リーダーの一人であった。愛知同友会はEU議会における「小企業憲章」採択に関する情報を02年2月に手にするや、さっそく同年9月にオランダ、ベルギーへヨーロッパ中小企業政策視察団を派遣する。団長がほかならぬ鋤柄氏だった。
「ヨーロッパ小企業憲章」はその前文で、「小企業はヨーロッパの経済の背骨である。小企業は雇用の主要な源泉であり、ビジネス・アイデアを生み育てる大地である。小企業が最優先の政策課題に据えられて初めて、〝新しい経済”の到来を告げようとするヨーロッパの努力は実を結ぶであろう」と記している。
その清新で明確な内容に衝撃を受けて帰国してきた鋤柄氏らの報告をもとに、同友会は03年の福岡における総会において、中小企業憲章制定運動を提起する。なぜ同友会が「中小企業憲章」に着目したかは、このときの総会宣言を読めば理解できる。
「私たちが金融アセスメント運動の中で学んだことは、日本経済繁栄の原動力は中小企業の発展にあり、そのためには金融政策のみならず、国の経済政策そのものが中小企業を軸に大転換する必要に迫られていることです。すでにヨーロッパでは21世紀の経済発展と雇用の担い手は中小企業にあるとの認識に立って『中小企業憲章』が制定されています。日本においても、中小企業を国民経済の豊かで健全な発展の中核と位置付ける『中小企業憲章』の制定が望まれます」
もっとも当初は、鋤柄氏にしても中村氏にしても「中小企業憲章」をどう考え、どう捉え、どういう内容にすべきか「ほとんど訳のわからない状態だった」という。
しかし彼らの誰もが抱いていたのは、明治期の殖産興業、戦後の傾斜生産方式、高度経済成長政策などに代表されるように、政府の経済産業政策は常に大企業優先であり、そうした政府の姿勢を受けて、就業者の7割が中小企業で働いているという現実があるにもかかわらず、国民の中小企業に対する目は差別的であり、蔑視としか言いようのないもので、身に染みるほど冷淡なものであった。
「例えば高校の先生が、教え子を中小企業に世話したところ、父兄から何でうちの息子をそんなところへ就職させるんだと怒鳴り込まれるなどという話がままありました。そうした父兄の認識と、その背後にある社会の見方、構造を何とか変えたいと考えたのです」と、中村氏はより具体的に「中小企業憲章」制定の狙いを説明する。政府の姿勢、国民の意識を変えるためには、「中小企業憲章」の制定は不可欠だと、同友会のリーダーたちは考えたのだ。
福岡で開かれた中同協総会ののち、当時の赤石会長をヘッドに学習運動推進本部が中同協内につくられ、そこでの検討事項から「草案」が作成される。そうした時期に、民主党政権が誕生する。中小企業憲章に関して、従来の政権与党は「すでに中小企業基本法があるのに、屋上屋を重ねることはない」との立場だったが、同友会側の働きかけなどもあり、旧民主党など野党は早くから、理念を盛り込んだ中小企業憲章の制定に賛成しており、マニュフェストにも盛り込んでいた。
10年6月、菅直人政権時に「中小企業憲章」は閣議決定されるに至る。内容は経済産業省のホームページで今も閲覧できるので、ここではあらためて記さない。ただし残念ながら旧民主党政権が短命だったために、国会では決議されなかった。同友会は現在も「金融アセスメント法」とともに、「中小企業憲章」の国会での議決を求めて、運動を続けている。
それはともかく、この「中小企業憲章」制定運動は、「同友会が中央官庁に認められるきっかけとなった」と鋤柄氏は振り返る。「担当省庁の中小企業庁を中心に、『同友会という組織はよく勉強しているし、主張も筋が通っている』と評判になった」というのである。先の金融アセスメント法案制定運動もあり、同友会は小粒ながら中小企業団体の一つとして中央官庁、そして都道府県はじめ各地方自治体に次第に認知されるようになっていく。その契機となったのが、冒頭の中村氏らの動きであったことは言うまでもない。
清丸 惠三郎
ジャーナリスト
出版・編集プロデューサー