人間が他の動物とは違うのは「生を意識している」こと
■コロナ禍の消費者心理を読み解く
マーケティングにはいろいろな意味があるが、核心にあるのは説得術だ。もっと言えば、特定の顧客に最適なタイミングで適切なメッセージを届け、ニーズや欲求を喚起し、一定の行動や反応(多くの場合は購入)を引き出すサイエンスである。もっとも、すべての条件が揃ったとしても、せいぜいハリケーンのなかをハンググライダーで飛ぶようなもので、はなはだ心許ない。それに、世界的なパンデミックの真っ只中では、どう見ても好条件が揃っているとは言い難い。
新型コロナウイルスの世界的流行は、プライベートか仕事かを問わず、これまでに経験したことがないほど長期にわたって心に傷を残す出来事だろう。しかも、その間に目にしてきた社会不安や葛藤は並大抵ではない。マーケティング関係者や小売り関係者が訴求対象としている消費者は大きな心の動揺を覚えている。
いったいコロナ禍の消費者の心理状態はどうなっているのだろうか。不安は人間の行動にどのような影響を与えているのか。消費者に受け入れてもらえるメッセージと、消費者が反発を感じるメッセージの違いは何か。こうした疑問を考えているうちに、私はアーネスト・ベッカーという人物に行き当たった。
ベッカーは、サイモン・フレイザー大学の教授で、専門は人類学である。同大で教鞭を執るかたわら、1974年に『The Denial of Death』(邦訳『死の拒絶』)を著し、ピューリッツァー賞に輝いている。ベッカーの作品の基本的な前提を一言で言うなら、人間は自らの生を意識しているという点で他の動物とは一線を画するということだ。私たちは、朝、自分の意思で起き、日の出を目にして、「生きているって素晴らしい」と実感できる。
独自の進化がもたらした明らかな特徴ではあるが、ベッカーに言わせれば、それは死をも意識しているという意味で、諸刃の剣なのだ。確かに、私たちは死とはどういうものか知っているし、不可避であり、それが永久に変わらないことも承知している。
この意識という人間特有の特徴、言い換えれば死の認識と恐れこそが、日々の行動のかなりの部分を突き動かしているというのが、ベッカーの基本的な前提なのだ。また、きたるべき死に対処するために、人間が周到な世界観を構築することで、人生に意味や目的を与え、死から逃れられないという現実から目をそらせる道具にしているのではないかとベッカーは推測する。
仕事、学校、家族、チーム、祈りの場などは、いずれも心理的な緩衝装置となっているからこそ、避けようのない死について、くよくよせずに済んでいるのである。さらに、将来の計画を立てることで、死から目を背け、その計画を楽しむために自分は将来も存在しているという想定でいられるのだ。そして、この世界観で、自分の人生に価値や意味を与え、物事を俯瞰的に眺めることで、自分自身がそれなりに重要な存在であると自らに言い聞かせるのである。会社や家族が自分を必要としていると自らに言い聞かせ、なかには宗教的な信仰や儀式を守ることで死後の人生を確信する者もいるだろう。
このような世界観は、ひとたび確立すれば、日常生活を通じて絶えず意識し、ほとんどの場合、死について考えずに済むのだ。ベッカーが力説するように、時折、この世界観の安全や安心を突き崩すような出来事が発生すると、死という考えが頭をもたげ、それとともに心理的な変化が怒涛のごとく押し寄せる。その変化には、従来と違う消費行動も含まれる。
ベッカーの独創的な研究は、シェルドン・ソロモンやジェフ・グリーンバーグ、トム・ピジンスキーというアメリカの社会心理学者グループの手で発展を遂げている。ソロモンは次のように言う。
≪「俺はいつ死んでもおかしくない。外を歩けば飛んできた彗星に直撃されるかもしれないし、ウイルスにやられるかもしれない」などと考えてばかりいたら、朝起きる気もしないだろう。ベッカーはこのように仮説を立てた。まるで収縮だけを繰り返す原始的な生命体がベッドの下にうずくまり、手探りで大きな安心を求めているようなものだ。≫