「すいません…。店の金に手をつけてしまいました」
CIEL:筆者たちが立ち上げた美容室サロン。大阪、天六に第一号店、難波に第二号店をオープン。
筆者:証券会社でディーラーとして勤務後、営業部へ転属。成績を残すが、顧客の意に沿わない商品を販売するのが心苦しく、その後個人トレーダーとして独立。ひょんな縁から美容業界へと飛び込むことに。
田中さん:筆者を美容業界へといざなったキーマン。立ち上げ当初から、筆者と二人三脚で「CIEL」の経営拡大に尽力した。しかし、店の売り上げを抜いていたことが発覚。
佐山さん・伊藤さん:天六店・難波店の店長を務める美容師。筆者とは飲み仲間。
国生さん:筆者が経営スタッフとして招いた美容師。
2018年の3月。難波店店長の伊藤さんが、話があるというのでいつものように珈琲店で待っていると、伊藤さんがいつになく硬い表情で現れた。少し遅れて天六店の店長の佐山さんもついてきた。同じ店長という立場なので佐山さんと伊藤さんは仲がよく、筆者と3人でもよく飲みに行っていた。でも今日はそんな雰囲気ではない。
「どうしたんですか」
ただならぬ雰囲気に筆者が驚いていると、伊藤さんは黙って、佐山さんの方を見た。佐山さんにいつもの明るい様子はない。うつむいて、小さく絞り出すような声で佐山さんが言った。
「すいません……。店の金に手をつけてしまいました」
「えっ?」
筆者は、一瞬言葉を失った。田中さんとこの場所で話し合ってからまだ1ヵ月にもならない。田中さんも佐山さんもオープンから一緒に苦労してきた仲間なのに。筆者のショックは大きかった。
佐山さんは、結婚していて子供が2人いる。彼は昔借金をしていたのだと言う。返済し終わったと思っていたが、最近借金の督促が来たらしい。一度に返せる金額ではなかった。家族を守らなきゃいけないし、パニックになった彼は、自分だけでなんとかしようとカット+カラーのお客様の会計時にレジ打ちをカットだけにしてカラーの代金を自分のものにすることを思いついた。1日10人施術をしたとしてカラー代金を自分のものにすれば3万円が手に入る。
佐山さんの挙動に不審を抱いたスタッフが伊藤さんに相談して、驚いた伊藤さんが佐山さんを問い詰めたらしい。
「いくら事情があっても、上に立つ人間がそんなことするってどうなんですか! 社長がどれだけ苦労してるか、佐山さんだって知ってるでしょ!」
筆者は田中さんの件を伊藤さんに相談していたので、彼も筆者が悩んでいることを知っていた。だから余計に怒りが湧くのだろう。伊藤さんは涙をにじませながら声を震わせて佐山さんを叱っている。佐山さんはただただ謝り続けた。
店の金に手をつけるというのは犯罪だ。普通ならば即刻解雇するべきなんだろうが……。
「スタッフの失敗には、1回だけチャンスを与えたい」
筆者はこのときなにがベストなのかを考えていた。
ただ、筆者は、人は変わることができると思っていた。過去の自分を引きずる必要はない。やり直そうと思う人には一度だけチャンスを与えたい。筆者は静かにたずねた。
「どんな事情であれ、盗るってことは許される行為じゃないですよね。ただ、筆者自身、スタッフの失敗には、1回だけチャンスを与えたいと思ってます。それに対して、佐山さんがもう一度新しい気持ちで頑張れるかどうか、それを聞かせてください」
「店長の私がこんなことをしてしまって、スタッフに顔向けできません」
佐山さんはうつむいたまま、そう言う。
「佐山さん、OXYで一緒に働く気持ちがあるかどうかだけ、いま、聞かせてもらえますか」
「こちらはとても働きやすい環境なので、働ければありがたいと思います。こんなことしてしまった自分が、言っていいことかどうかわかりませんが」
佐山さんはさらに小さな声で言った。
筆者は、あといくら借金が残っているのか、いままでどおり働いて返せそうなのかをたずねた。
佐山さんから返ってきた答えはそれが無理な金額だったので、筆者は提案した。
「一つの提案として、もう一度頑張る気があるなら、佐山さんだけ特別待遇はできないので、勤務時間以外にも働いてもらって残業代を多く払うという方法もありますよ。それといまの店舗じゃ働きにくいでしょうから、野江店に移るのも一つの手です」
すると佐山さんは顔を上げ、涙を流しながら震える声で言った。
「ありがとうございます。そこまで考えていただいている社長を裏切るようなことをして、本当に申し訳ありませんでした。妻にも今回のことを全部話して、社長から提案していただいたことを相談します」
その後佐山さんは野江店に移り、頑張って働いた。そして自分の借金と不正に会社から取得したお金を全て返済したあとCIELから去った。それが彼のけじめのつけ方だったのだと思う。
過去の自分を引きずる必要はない。やり直す、新しく歩もうと思えば、いつでも、誰でも、人は変わることができる。
それが筆者の信念だった。筆者だって証券会社に入ったときには、コンパだけが生きがいの社員だった。でも、いろいろな人に出会い、励まされて、過去にとらわれることなく考え方や行動を変えてここまできた。間違ったことをしても、変わろうと思えば、そしてそれに向かって必死に努力をするならば、人は変わることができる。
「不正の連鎖」を止めるために必要なことは…
ただ、今回の問題は他のところにある。
筆者の心は沈み込んでいた。佐山さんが不正をするきっかけになったのは、田中さんのことがあったのではないだろうか。
筆者と田中さんが話し合ったあとも田中さんが不可解な行動を繰り返している、という話が筆者の耳に入ってくることがあったが、筆者はその噂を信じることができなかった。いや、信じたくなかった。そして筆者自身の忙しさもあり、深く追求することができずにいた。
これをこのままにしておくと、「これくらいならいいんじゃないか」「あの人もやっていることだから」などという空気が店のなかに蔓延するのではないか。このままでは現場の統制が取れなくなる。筆者がもっと現場に目を光らせればいいのだろうけれど、出店ラッシュのいま、とてもそんな余裕はない。
でも筆者が店舗拡大のために走り回っていたのは、心の底では田中さんの問題を忘れていたかったからかもしれない。悩みを紛らわすためにさらに仕事に没頭し、働いて、働いて。そして心も身体もボロボロになって入院したのだった。
黒い染みが広がってしまう前にこの疑惑をなんとかしよう。筆者は入社早々の国生さんに相談を持ちかけた。
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