本記事は、西村あさひ法律事務所が発行する『危機管理ニューズレター(2021/3/31号)』を転載したものです。※本ニューズレターは法的助言を目的とするものではなく、個別の案件については当該案件の個別の状況に応じ、日本法または現地法弁護士の適切な助言を求めて頂く必要があります。また、本稿に記載の見解は執筆担当者の個人的見解であり、西村あさひ法律事務所または当事務所のクライアントの見解ではありません。

本ニューズレターは、2021年3月31日までに入手した情報に基づいて執筆しております。

1 はじめに

2000年代半ばの司法制度改革以降も、刑事司法制度には改革がなされてきました。その結果、従前から指摘されていた多くの問題点は改善されました。

 

しかし、近時における、新技術の台頭、司法取引制度の導入、検察審査会の強制起訴事件における無罪の続発等に照らすと、検察官や検察審査会が起訴の判断をする場合に、その起訴判断それ自体を直接チェックする法理やメカニズムが必要なのではないか、と考えています。

 

本稿は、問題提起ないし試論として、かかる法理やメカニズムの必要性を論じるものです。なお、本稿の2では、現行制度が成り立っている背景等について説明しており、本稿の主題は3にありますので、刑事司法制度について、ある程度の知識をお持ちの方は、3を先に読んで頂くのがよいと思います。

 

(※画像はイメージです/PIXTA)
(※画像はイメージです/PIXTA)

2 現行制度

(1)起訴便宜主義(検察官の訴追裁量権)の趣旨

 

検察官には広範な訴追裁量権が刑事訴訟法248条によって与えられています。検察官の訴追裁量権の必要性については様々な角度から裏付けられ、それ自体は正しいことです。例えば、人間は誰しも過ちを犯すことがあります。ついつい魔が差して、万引きをしてしまった、やむにやまれず他人に暴力を振るってしまった等のケースです。

 

こうした場合に証拠上犯罪が成立するからといって、検察官が誰も彼も起訴して、罰金をとったり、執行猶予がつくのだからと正式起訴(公判請求)して懲役刑を科すことになれば、その人は会社から解雇されたり、家族から見放されたり、社会から犯罪者のレッテルを貼られて信用されなくなって仕事もままならないことになるなど、様々な弊害が生じます。

 

人間は誰しも長い人生の中で過ちを犯すのだから、改善更生して再出発する機会を確保すべきだ。犯罪で他人を苦しめたということもなく、実害が極めて軽微なのであれば、裁判にかけて前科者のレッテルを貼ることは適切でなく、不起訴(起訴猶予)にすべきだ。その人には、過ちを悔い改めて、社会や家族のために引き続き活躍してもらおうじゃないか。そうした理由などで、検察官は、たとえ犯罪が成立するとしても、あえて起訴をしない裁量が与えられています。

 

(2)検察官の不起訴処分をチェックする仕組みとしての検察審査会

 

他方において、検察官の不起訴の判断が適切でない場合の仕組みとして、検察審査会という制度があります。例えば、捜査が不十分であったり、証拠評価を誤って、検察官が不起訴にする場合や、検察官の不起訴判断が被害感情や社会の処罰要求に応えていない場合などは、検察審査会がこれをチェックします。

 

2000年代半ばの司法制度改革までは、検察審査会の議決には、検察官に対する勧告的な効果しかなく、検察官の不起訴処分を覆す法的効力までは与えられておりませんでした。司法制度改革の背景には、裁判員制度に見られるように、国民の刑事司法への参加を高めようという思想がありました。それまで、刑事司法が、職業法曹だけで進められ、いわば国民不在であったことに対する真摯な反省があったわけです。

 

加えて、当時、悲惨な殺人事件や酒酔い運転等による死傷事故などを背景に、刑事司法における被害者・その遺族の保護の要請が高まりました。検察官がプロフェッショナルとして厳正な証拠評価を行って不起訴にした場合でも、被害者やその遺族からすると納得できない場合がありました。検察官の判断が間違っているのではないか、あるいは、たとえ有罪立証の見込みが高くないとしても、公開の法廷で全ての事実を明らかにして審理を尽くしてほしい、そうでなければ納得できない、という思いです。

 

このようなことを理由にして、2000年代半ばの司法制度改革の中で、検察審査会が起訴相当の議決を2回行ったときは、被疑者が強制的に起訴されるという制度が導入されました。ここで、「強制的に」とは、検察官の不起訴処分を覆して、被疑者が起訴される、という意味であり、公判では、弁護士が検察官役を務めることになります。

 

今日では、世間の耳目を集める事件などで、検察審査会が起訴相当議決を行って、被疑者が強制起訴される事件が少なくなりありません。

 

この検察審査会制度が、検察官の不起訴処分をチェックする仕組みです。

 

(3)検察官の起訴をチェックする仕組み

 

問題なのは、検察官の起訴をチェックする仕組みです。もちろん、検察官が証拠不十分なのに起訴をすれば、裁判所が無罪にします。あるいは、検察官が不当に過酷な求刑(例えば、銀の燭台を出来心で盗んだだけなのに、極めて長期の懲役刑を求刑するなど)をしても、裁判所は、これに応じず、妥当と考える刑を科します。

 

裁判制度も三審制をとり、かりそめにも間違った判断がなされないように厳正にチェックされ、更に再審制度もあります。検察官としての適格性を欠く人物がいれば、検察庁内部の人事や処分のほか、検察官適格審査会がチェックします。

 

しかし、検察官が、例えば、本来は不起訴にすべき軽微な犯罪なのに事件への過度の思い入れから起訴したり、起訴には社会的な弊害等が大きいことを十分に斟酌しないで起訴した場合であっても、裁判所は、犯罪自体の証拠がある以上は、有罪にして、刑を科す以外には、基本的に選択肢はないことになります。本稿の主たる課題は、後述するとおり、この制度の建付けで、今日的課題に対処できるのだろうか、という点にあります。

 

この点、公訴権濫用論という議論があります。これは、検察官の起訴は訴追裁量権の濫用であるとして、起訴を不適法として直ちに裁判を終わりにするという法理です。ただ、これは、起訴が検察官の職務犯罪を構成し得るようなものなど、極端なケースを念頭に置いたものであって、本稿で後ほど述べる今日的課題には、少なくともこのままでは対応できないと思われます。そもそも、実務家は、公訴権濫用論と聞くと、およそ認められないという先入観すら抱くと言っても過言ではありません。

 

また、刑事実体法における可罰的違法性論という議論もあります。これは、1円の価値もないような財物を盗んだ場合には、処罰に値する違法性がない、として、犯罪が成立しないとするものです。本稿で問題にするのは犯罪が成立することが明らかである場合や、犯罪が成立するかどうかを問うこと自体が適切でないというケースですので、やはり可罰的違法性論では対応できないと思われます※1

 

※1 なお、以上のほか、刑事裁判が異常に長期化し、迅速な裁判の保障に反する事態になった場合は、裁判所が免訴の判決で公判を打ち切ることができるとする判例(高田事件)がありますが、これも極めて例外的なケースです。

 

検察官が起訴の判断をし、裁判所は検察官のその判断に極端な場合以外は介入しないという制度は、理念的には正しい制度ですが、現実を見てみると、物事は、そう簡単に割り切れるものではありません。

 

例えば、証拠が十分でないのに検察官が起訴した場合、「最後は裁判で無罪になるのだから、それで問題ない」と、本当に言えるのでしょうか。起訴されれば、事件によっては大きく報道されます。報道されなくても、SNSなどを通じて広く拡散して、家族や隣近所、勤め先や取引先に知られてしまい、勤め先を解雇されるかもしれません。

 

逮捕・勾留され、無罪を主張して争えば、起訴後も保釈されないまま、長期間勾留されます。公判で無罪を勝ち取るまでは、労力も時間もかかります。生活の全てを公判という裁判に捧げて、一審判決まで1年か2年、最高裁まで含めれば数年間かかって、ようやく無罪になった。しかし、無罪になったときには、全てを失っていた。そうした事態も十分にあり得ます。せいぜい、無罪になれば国から補償を受けたり、国家賠償請求で金銭賠償を受けることがある、という程度にとどまります。

 

そうなると、争えば無罪になる被疑者・被告人であっても、罰金で済む、執行猶予がつくとなれば、認めて早期に保釈してもらうことを選択することになってもおかしくありません。

 

このように考えると、検察官の起訴をチェックする仕組みは、裁判所による有罪・無罪の判断や刑の量定、極めて例外的な公訴権濫用論等の法理があるものの、それで十分なのだろうか、という問題意識が出てきます。

 

以上で述べた、検察官の起訴の判断に伴う問題点は、検察審査会による強制起訴の制度にも、そのまま当てはまります。

 

これまでは、それでも、あまり不都合はありませんでした。たとえ犯罪としては極めて軽微であっても、被疑者の動機や、犯罪の社会的影響、被疑者の悪性、処罰しないことで被疑者が将来に凶悪重大な犯罪を犯す可能性、被疑者の改善更生のためにはむしろ施設内処遇が有効である可能性などの様々な事情を総合考慮すれば、被疑者を処罰する方がよい場合もあります。

 

検察官が、その被疑者、その事件を起訴したことについては、必ずしも公判に証拠として提出されていない事情も含めて、様々な事情を総合的に考える必要があり、その当否を裁判所などの第三者が事後的に判断することは本来は容易なことではなく、適切であるとも限りませんでした。

 

また、戦前の治安維持法下の起訴、いわゆる思想検察などの問題はあったものの、少なくとも戦後は、検察官が政治的理由で軽微な事件を殊更に起訴したり、国家刑罰権を人権蹂躙のために利用するなど、検察官による不当な起訴の問題は、あまり懸念する必要がありませんでした。仮に、そのようなことがあれば、世論等が沸騰するわけで、そうした刑事司法制度の外側にある牽制のメカニズムが有効に機能することも期待できました。

 

えん罪事件の起訴のような事例も、いろいろと問題はあれど、何とかなってきました。日本の検察官は、精密司法と言われるくらい、「有罪立証の絶対の自信がない限り、起訴をしない」という公訴権行使の在り方を守ってきました。裁判所の審理も同様に精密司法そのものでした。時には、被告人自身が捜査段階から公判廷まで一貫して罪を認めているのに、裁判所が客観証拠の欠如を理由に無罪にすることさえありました。

 

残念ながら、司法制度も人間が行うことであるために、完全にえん罪をなくすことまではできていませんが、諸外国の例と比較しても、圧倒的に日本はえん罪が少ない、少なくとも、これまではえん罪が少なかったと思います。

次ページ今日的課題

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○執筆者プロフィールページ 木目田 裕

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