認知症の本質は「暮らしの障害」という意味
認知症は「何もわからない人」ではない
父が認知症になってから、よく聞かれることがある。「まあ、お気の毒に。玲子さんのこと、おわかりになりますの?」だ。必ずと言っていいほど、「お気の毒に」が付く。ちっともお気の毒ではない。
「私の顔も孫の顔もわかりますよ」と答えると、だいたい「へ~っ」という顔をする。どうやら多くの人たちは「認知症=何もわからない人」と思っているようだ。
アルツハイマー型認知症の場合は一般的に、時間や場所の見当がつかなくなり、最後には人の顔がわからなくなるといわれている。認知症になったとしても、認知機能が一度に全部低下するわけではない。タイミングによって症状の波が現れるのである。
認知症の本質は「暮らしの障害」で、今まで当たり前にできていた「普通の暮らし」ができなくなることが特徴だと、認知症の専門医であり、私が尊敬する長谷川和夫先生もおっしゃっている。「認知症=なにもわからない人」ではないということを知ってほしい。
現に父も、地球人の時には、いたって普通の92歳である。
おわりに
認知症という名前ができたのは2004年。なんと介護保険法が施行されてから4年も経ってからだ。それまでは「痴呆」と呼んでいた。そのもっと前は、「うちのじーさんは、ボケて頭がおかしくなった」といったように、認知症の家族の存在を隠すためにそれこそ座敷牢のような部屋に閉じこめていたようだ。病気への知識や理解がなかったとはいえ、ひどい話である。
介護保険法が施行されてから20年、認知症に対する理解も深まっていると思いきや、実際にはまだまだ正しく理解されていないように感じる。「認知症になったら何にもわからなくなっていいんじゃない」というような言葉を聞くと、『認知症がよ~くわかる本』みたいな本を送りつけてやりたくなるぐらいだ。