その時々の医者の「恣意」が病気を生み出す
一所懸命考えてみると、結核という病気は「実在しない」と結論づけるより他ありません。
たとえ結核菌というばい菌が体の中にくっついていても、それが結核という病気と認識されるとは限りません。「保菌者」と認識すれば、それは病気ではないからです。アメリカの医者は、それを「症状のない結核という病気=潜伏結核」と認識し直そうと提唱しました。そうみんなが考えれば、この現象は病気に転じます。
以前の考え方だと、「潜伏結核=結核菌が体に入っているけど『病気』を起こしていない状態」とは、専門家が「病気ではない」と決めつけた恣意的な存在でした。そして逆に、「結核菌が体にあれば、それを病気と呼ぼうじゃないか」というアメリカ人の態度も別の専門家の恣意にすぎません。結核という病気は実在せず、病気は現象として、ただ恣意的に認識されるだけなのです。
潜伏結核のカウンターパートとしての活動性結核。これは、結核菌が人間の体内に入り、なおかつ結核菌がその体内から見つかっている、あるいは結核菌が症状を起こしている、という意味ですが、これも専門家たちが決めつけた恣意的な存在です。
病気は「現象」であり、「実在するもの」ではない
活動性結核といえども、認識される現象にすぎず、実在するものではありません。なぜなら、潜伏結核が「結核菌を持っているけれども結核菌が検出されていない状態」を意味する以上、潜伏結核と活動性結核が併存することは論理的にあり得ません。両者は二律背反的な存在なのです。結核菌を有している人は、専門家の定義によって潜伏結核か活動性結核かのどちらかに分類されるのであり、どちらも併存することはあり得ないのです。
ところが、その潜伏結核が潜伏結核である、あるいは、活動性結核が活動性結核である、と確実に断言する方法が存在しません。レントゲンにつかまっていない、CTで見つからない、そういった小さな結核病変があるかもしれないからです。病変があるかどうかを医者が認識すれば活動性結核という病気ですが、そうでなければ活動性結核ではないのです。それは、潜伏結核になってしまうのです。これは原理的にそうなのです。
将来、どんなにテクノロジーが進歩してもこの構造そのものが変化することはないでしょう。例えば、CTを凌駕するXという検査が発明されても、Xで見つからない結核の病変では活動性結核という病気と認識されず、潜伏結核と認識されるのです。さらに悪いことに、活動性結核の治療は複数の抗結核薬を使用して6か月間の治療と決められているのですが、潜伏結核の場合、イソニアチドという薬1つで9か月間の治療なのです。判断、認識の違いが治療のあり方も変えてしまうのです。こんなへんてこなことが許容されるのは、結核という病気があくまで認識のされ方によって姿を変える「現象」であり、実在しないものだからに相違ありません。
岩田 健太郎
神戸大学医学研究科感染症内科 教授