ビールが飲めるなら、痛風ぐらい耐えられる?
病気は現象ですから実在しません。それをどう認識し、対応するか。治療するのか、しないのか。一義的には決定しようがありませんし、またその必要もないでしょう。これを決定するためには、医療の目的を明確にしなければなりません。自分の価値観も明確にしなくてはなりません。自分の目的を明確にして、価値観を明らかにして、初めてその目的に合致する形で価値の交換作業を行うことができるのです。これで初めて健全な医療を行うことができます。
「痛いのは嫌だ」という価値を持つ患者さんの痛風発作。痛み止めで治療したり、尿酸値を下げる薬を飲んでもらったり、食事やお酒に気を遣ってもらって予防をするというのは、その人の「価値」に合致した医療でしょう。ですから、その価値に合致した形で治療プランを立てられます。
もし、「痛いのは嫌だけど、酒は飲みたい。1年に1回くらいの発作ならなんとかがまんできる。それをがまんしてでも俺はビールを飲むんだ」という生き方の人がいるとしましょう。大抵の医者は「あんた、そんな不摂生なことでどうするの。ビールなんて論外、だめだめ」と指導することでしょう。でも、もしかしたらそれは医療者のお節介かもしれません。
痛風発作を1年に1回は許容している人にとって、おいしいビールの価値はそれをも上回るのかもしれません。どちらがより大事かを私たちが勝手に決めていいのかどうか、少なくとも私にはわかりません。医療は価値の交換をする媒介物にすぎないとすれば、当人の価値に合致しない医療は「余計なお世話」なのではないでしょうか。
タバコが吸いたい…患者の意思を医者は止められる?
タバコを吸う権利はあるのかどうかという点についても同様だと思います。少なくとも、ちゃんと健康被害の情報を認識している場合、それを拒む権利が医療者にあるかというと 微妙だと思います。そうではないと主張する医者も多いでしょうが、長々と考えてみて、私という医者が患者さんにタバコを吸わせない根拠は乏しいのです。
それは、タバコと健康は価値の交換関係だからです。あるいはタバコと病気の交換関係と呼んだほうがよいかもしれません。
確かに、タバコは心筋梗塞や肺がん、その他諸々の病気の遠因になっています。だから、 健康を害する可能性は高く、寿命も短くなる可能性は高いでしょう。大抵の人は、そのような情報提供が十分に行われればタバコはやめてしまうかもしれません。しかし、自分の意志でそれでも吸うと覚悟を決めている場合は、それを拒むことはできないように思います。
もちろん、タバコには依存性があります。本人がやめたいのにやめられないと困っているのなら、喫煙行為はその人の目的や意図に由来するものではありません。このときは医療者がお節介根性を出して介入する価値はあるでしょう。薬物療法、カウンセリング、いろいろなやり方でタバコをやめる支援は可能です。その場合、禁煙という行為がその人の真の目的と合致しているのですから、それはそれでいいのです。
まわりの人が迷惑をしている、副流煙で他人が病気を起こしそう。この場合はお願いして 1人で吸ってもらうのがいいでしょう。他人に迷惑をかけてまで自分の自由にしてよいとは一般の人間社会では了解されていませんから、それは認められないわけです。いくら病気は当人の価値との交換で治療されたりされなかったりするといっても、他人に迷惑をかけてまで自分の価値を押し通す権利は誰にもないでしょう。人間は他人に積極的に迷惑をかける強い権利を持っていないと思うからです。嫌煙権という言葉がありますが、これも尊重されるべきでしょう。
このような制約をすべてクリアした上で、それでもタバコを吸いたくて吸いたくて仕方がない、という人がいたとしましょう。まあ、この段階になるとさすがにほとんどの人は喫煙をやめてしまうかもしれませんが、多くの喫煙者は、情報を十分に与えられていないことが理由でタバコを吸っているのです。けれども、それでも覚悟をして喫煙すると決めた場合は、それは少なくとも私という医者の立場からは、どうしても否定できません。