英国は初動コロナ対応に失敗も、科学的であり続けた
英国がCOVID19対策で、他国と異なる対応を取ると表明したとき、世界は驚いた。国民の多くにあえて感染を許容させ、集団免疫をつけさせようというのだ。かなりの「奇手」と思った。
ところが、事態は二転三転する。この感染許容策に多くの専門家が批判を寄せた。議論が繰り返され、結局、英国は他国同様、保守的で「普通の」感染対策を行うことを表明したのである。完全な方針転換であった。
二転三転する議論。日本であればこれを「失敗」と捉えるむきもあるだろう。しかし、ぼくはそうは思わない。むしろ、英国における「科学の健全さ」を証明したエピソードではないかと思う。
科学は失敗する。新しい問題に取り組むときは、特にそうだ。科学は無謬(むびゆう)ではない。研究活動とは、既存の世界観の外側に出ることを希求し、既知の概念を破壊し、未知の領域に新たな概念を創り出さんと望むことだ。その場合、失敗は必然的な結末だ。少なくとも、一定の確率でそれは起きる。それが起きないとすれば、それは既知の概念から一歩も外に出ていないのである。すなわち、科学的営為を行っていないのである。
だから、失敗するのは科学的失敗ではない。科学的失敗は、失敗そのものによって起きるのではない。失敗は認知され、評価され、吟味され、改善の糧とされ、そして未来の成功の燃料として活用されればそれでいいのだ。「失敗」と「科学的失敗」は意味が違う。「科学的失敗」とは、失敗の認知に失敗し、評価に失敗し、吟味に失敗し、改善に失敗し、未来の成功に資することないままに終わるような失敗を言う。これこそ本質的な失敗である。
英国は失敗した。初手の出し方において失敗した。しかし、失敗の認知には失敗しなかった。よって、科学的であり続けるという点においては一貫性を保っていた。「朝令暮改」が繰り返されるのは、科学的な一貫性の証左なのである。