古い建物には、必ず高齢者が住んでいます。若い人たちは、やれWi-Fiだ、宅配ボックスだ、オートロックだとハイスペックを求めるので、転居していきます。建て替えのときには、おのずと高齢者が立ち退き交渉の相手方になる確率が高くなります。
しかも、高齢者はなかなか部屋を貸してもらえないため、またしても古くて安い物件、空室で困っている物件に入居することになります。ところがやれやれとやっと入居できても、建物の寿命の方が先にきてしまい、結果としてまた転居を余儀なくされるということにも繋がるのです。
長期で住みたいという高齢者の思いは、物件側の事情と相まってなかなか成就しません。村山さんも有村さんも、高齢ながらまだビルの夜間の警備や畳職人としてお仕事をされていました。今のアパートに転居されてからはもちろんですが、以前のお住まいのときも、滞納なんて一度もありません。
家主側からすると、その点ではとても安心できる賃借人であることは間違いありません。ただお二人とも独身で、親しくしている親族もいないということでした。万が一のことがあったときに……この問題が、重くのしかかります。
幸い、お二人がお住まいの場所は、数名の大地主さんが賃貸物件をたくさん持っているエリアでもありました。同時に治安も良く、一度住みだすとなかなか別の場所に転居していかないほど、人情溢れる下町の良さも兼ね備えた場所でもあります。このエリアなら、何とか新居が見つかるんじゃないか、私の心も逸ります。
きちんと家賃を支払ってくれる実績のあるこのお二人のため、新居探しが始まりました。
不動産会社に問い合わせても、きっと年齢や条件で門前払いになってしまいます。こうなれば仕方ありません。直接、家主さんにアタックしていきました。
村山さんたちは、まだお仕事をされてお元気であること。今まで一度も滞納をされたことがないということ。お人柄も温厚で、他の入居者の方々と一度もトラブルがないこと。ここは前のめりになりながらでも、一生懸命に訴えるしかありません。
するとあまりの勢いに押されたのか、家主のお一人が空いているお部屋をご紹介くださいました。残念ながらどのお部屋もそこそこ築年数が経っているので、いずれまた取り壊しの話がでるかもしれません。
「その時は、その時で考えます。とにかく今は、1日でも元気で迷惑かけないように頑張るしかないねえ」
新居の候補があることをお伝えすると、村山さんも有村さんもとりあえずホッとされた様子でした。
「一言で済むことなのに。僕は、隣の建物にいるのに」
紫陽花が雨で色濃くなる頃、井上さんの事件は明け渡しの判決が言い渡され、強制執行手続きが行われました。
部屋の中には数足の靴。古い小さなテレビ。薄っぺらい布団が無造作に敷かれ、その上には春物の掛布団。やはり井上さんは、去年の夏に入る前にいなくなってしまったのでしょう。その他には数枚の衣服と、コンロの上のヤカンくらいしか残っていませんでした。
生活している中で、忽然と姿を消したというよりは、やはり必要な物だけ持って、ご自身の意思で出て行ったというような印象でした。
「一言さ、出て行くから部屋の物は処分してくださいって言ってくれれば、こっちで処分するのに。そうしたら要らぬ費用もかからないのにね。長年住んでくれていたから文句は言いたくないけれど、どうして黙って出て行ったりするのかな。たった一言で済むことなのに。僕は、隣の建物にいるのに」
家主の声は、切実でした。