井上さんはこのアパートが新築のときから約50年、ずっと一人で住んでいました。この間、家賃を滞納することもなく、何かクレームを言ってくるでもなく、顔を合わせれば挨拶する程度で、さして会話もなかったことから井上さんの情報はほとんどありません。契約書もいちばん最初の古いまま。契約当初の書面以外、他には何も残っていませんでした。
「ちゃんと手続きをして、出て行ったと思っていたよ。ただ荷物運びだしている様子もなかったしなぁ。声かけてくれないなんて水臭いなぁって思っていたんだよね」
村山さんも、事の成り行きに驚いた様子でした。
2階はもともと井上さんしか住んでいなかったので、使われていない階段は錆びて抜けそうな状態です。そろりそろりと家主と上がってみました。いちばん手前の部屋が、井上さんが住んでいた201号室。表札はそのまま掛かっていました。
古いタイプのドアでポストがついていたので、指でポストを押してみると室内が僅かに見えました。靴は何足か転がっています。部屋の奥にも、ブラウン管のテレビや脱ぎ捨てた衣服も見えました。もぬけの殻という訳ではなさそうです。
挨拶する仲だった井上さんが、荷物を置いたままいなくなってしまったことに、家主は肩を落としていました。
手続きをするにあたって、井上さんの住民票を請求してみました。ところが川崎市のアパートには該当なし。井上さんは半世紀近くも住んでいながら、住所は別の場所にあったようです。
ならばと契約書記載の住所に請求しても、これまた該当なし。これは契約書に記載された住所と建物の住所、このどちらにも住民登録がない、もしくは昔はあったけれど異動したあと役所の保存期間が経過してデータが残っていないという状況です。もともと入居時に運転免許証や住民票等の公的書面が何もないので、これ以上井上さんの住所を探し当てることはできません。
もしかしたら「井上」という名前すら、偽名ということもあり得ます。今となれば、確かなことは何もないという状況でした。
井上さんがいなくなった原因は、何だったのでしょうか。認知症になって徘徊しているうちに分からなくなったのか、自分の意思で失踪したのか、何かの事故で部屋に戻れなくなったのか、もはや誰にも分かりません。
ただライフラインは止まり、家賃が1年以上滞り、そして滞納が始まった頃から誰も姿を見かけることはなくなった、その事実だけです。最終的に、家主は明け渡しを受けるための手続きをとることを選択しました。
「高齢・単身者・身寄りなし」ゼロからの物件探し
井上さんの手続きと並行して、この建物に残った村山さんと有村啓介さん(74歳)の立ち退き交渉が始まりました。お二人とも以前住んでいたアパートが建て替えになって、一緒にこのアパートに引っ越してきました。それからまだ6年しか経っていません。
「またか……。そうだよね、建物も古くなっているからね。ただまた物件探しが大変だ」
建物が古いので、ある程度は覚悟されている様子でした。ただ前回のときも高齢・単身者・身寄りがないという条件から部屋探しが難航したため、気持ちは重くのしかかります。考え込む表情から、途方に暮れている様子がうかがえました。
「もうずっとこの町に住んでいるから、今更別のところになんて行けない。俺らも探すけど、家主さんの方でも貸してくれるとこ探してよ」
村山さんがそう言うと、横で聞いていた有村さんも力強く頷いていました。