「困っているなら話してほしかった」実印を返した息子への思い
その週末、健一さんは実印を返しに来ました。そして、事業の資金繰りが悪化していることを打ち明けたのです。
独立後、思うように売り上げが伸びず、取引先からの入金も遅れていました。運転資金を確保するため、金融機関に融資を相談していたといいます。
しかし、希望する条件で借り入れることは難しく、別の資金調達方法を探すうちに、父親に保証人になってもらうことを考え始めました。
「父さんに頼んでも、反対されると思ったんだ」
健一さんは、父親の名前を保証人欄に記入した書類を用意し、実印を押そうとしていました。
ただ、書類を準備した段階でためらい、実際には押印していませんでした。融資の契約も成立していません。
「勝手に名前を書いた時点で、やってはいけないことだった。ごめん」
邦彦さんは、息子の話を聞いて言葉を失いました。
保証契約には、原則として保証人本人の意思に基づく合意が必要です。実印が押されていても、それだけで本人の同意が確認されたことにはなりません。また、事業のための借り入れで個人が保証人になる場合には、公正証書による保証意思の確認が必要となるケースもあります。
健一さんが用意していた書類だけで、邦彦さんに保証債務が生じる状況ではありませんでした。それでも、息子が自分に黙って保証人になる準備を進めていたことは、邦彦さんにとって大きな衝撃でした。
「困っているなら、どうして先に相談してくれなかったんだ」
健一さんは、うつむいたまま何も答えられませんでした。
最高裁判所『成年後見関係事件の概況―令和6年1月~12月―』によると、同年の成年後見関係事件の申立件数は4万1,841件。高齢期の財産管理について、家族や専門家が関わる機会は少なくありません。ただし、邦彦さんは自分で財産を管理できており、今回の件で成年後見制度の利用が必要になったわけではありません。
邦彦さんは実印を取り戻したあと、念のため印鑑登録を廃止し、新しい印鑑で登録し直しました。
健一さんには、事業の借入状況を整理し、専門家に相談するよう伝えました。
「息子だから助けたい気持ちはあります。でも、私たちにもこれからの生活があります。何も知らないまま保証人になることはできません」
健一さんはその後、妻にも事業の状況を説明し、今後について話し合いを始めたそうです。
毎週の訪問はなくなりましたが、邦彦さんは息子との関係を断つつもりはありません。ただ、以前のように何でも任せられる気持ちには、まだ戻れないといいます。
「買い物を手伝ってくれたのは、本当にうれしかったんです。だからこそ、最初に話してほしかった」
高齢期には、子どもの支えを受けながら財産管理を考える機会が増えます。信頼する家族であっても、印鑑や重要書類の管理、財産に関する手続きは本人の意思を確かめながら進めることが大切です。親子がお金の問題を抱えたとき、事情を隠さず話し合える関係を保つことが、互いの暮らしを守ることにつながるでしょう。
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