病院に現れた82歳女性、目的は「診察以外のこと」
午前9時半。住宅街にある内科クリニックの待合室は、すでに座る場所がほとんどありません。夏風邪で咳き込む会社員や腹痛を訴える学生、高熱を出した子どもを抱えた母親など。
患者が次々と訪れる慌ただしい空気のなか、自動ドアが開き、一人の高齢女性がゆっくりと入ってきました。
「おはよう! 今日も混んでるわね」
女性は佐藤和子さん(仮名・82歳)。スタッフとはすっかり顔なじみです。「まだ喉が少し痛くってねぇ」とはいうものの、前回の受診はたった2日前。軽く喉が腫れていると診断され、薬も1週間分処方されています。
待ち時間が長くても、和子さんは気にする様子もありません。受付のスタッフ声にをかけ、世間話をしながらゆっくりと順番を待っています。
「この前できた、そこのケーキ屋さん。おいしかったわ!」
「そうなんですね。よかったです」
まるで近所の知人と話すような、和やかなやり取りです。そして診察に呼ばれると、体調の話は一瞬で終わりました。
「まだ喉が痛いのよ、どんな感じか念のため診てほしくてね。それより先生、今日は暑いわね。先生は夏バテしてない? 今朝テレビでもね……」
テレビ番組、近所のスーパー、物価高……。症状の確認が終わると、佐藤さんは堰を切ったように話し始めました。
待合室には、診察室のドア越しに医師と患者の声がかすかに聞こえていました。内容まではわからないものの、時折聞こえる佐藤さんの明るい声や笑い声は、深刻な診察を受けているようには感じられなかったでしょう。
医師は時計を気にしながらも、笑顔を崩さず耳を傾けています。
「今日はお薬も残っていますし、もう少し様子を見ましょう。熱が出たり、症状が悪くなったらまた来てくださいね」
診察室を出た佐藤さんは、満足そのものでした。
「必要がない人は来ないでほしい」
しかし、会計時に「お買い物して帰るわ」とスタッフに最後の声かけをして病院を出ようとしたときです。苛々したような声が聞こえたのです。
「あとどれぐらいですか? もう1時間以上待ってるんですけど。仕事があるから立て込んでいるから早く戻りたくて」
声の主は20代くらいの会社員女性。喉が荒れているのかかさついた声で、マスク越しでも疲れた表情が伝わってきます。
「あと5人ですね。順番にご案内しておりますので……」
そう答える受付スタッフに会社員女性は頷きながら、くるりと振り向き小さくつぶやきました。
「はぁ、必要ない人は病院に来ないでほしい。こっちは忙しいのに……」
独り言であろうその声は、和子さんの耳にも届いていました。しかし、和子さんは何も言うことなく、静かに病院を後にしました。
