「もう帰るのか」…その一言であふれた涙
特養の玄関に着くと、職員が笑顔で迎えてくれました。
「昭男さん、今日からよろしくお願いしますね」
昭男さんは少し緊張した顔でうなずきました。真由美さんは手続きの説明を聞き、居室に荷物を運びました。部屋は明るく、ベッドも清潔でした。窓際には、家から持ってきた写真立てを置きました。
「お父さん、ここにお母さんの写真を置いておくね」
昭男さんは、しばらく写真を見つめていました。
「いいな」
短い返事でした。
荷物を整理し終えると、職員が食堂や浴室の場所を案内してくれました。真由美さんは、施設の説明を聞きながら、何度も「これでよかったんだ」と自分に言い聞かせました。
しかし、帰る時間が近づいたとき、昭男さんがぽつりと言いました。
「もう帰るのか」
その声は、責めるようなものではありませんでした。ただ少し不安そうで、少し寂しそうでした。
その瞬間、真由美さんの中で張りつめていたものが切れました。
「泣くつもりなんてなかったのに……」
廊下に出た途端、涙が止まらなくなりました。職員が静かに椅子を勧めてくれました。
この日を待っていたはずでした。夜中の電話におびえずに眠れる。仕事中に父の転倒を心配し続けなくていい。そう思っていたはずなのに、父を置いて帰る自分が、まるで親を見捨てる人間のように感じられたのです。
職員は、真由美さんに言いました。
「ご家族が限界まで支えてこられたから、今日まで自宅で過ごせたんですよ」
施設に入ることは、親子の関係が終わることではありません。食事や排せつ、入浴などの介護を専門職に任せることで、家族は面会や会話、思い出を共有する時間に向き合えるようになることもあります。
真由美さんも、入居後は週末に父を訪ねるようにしました。最初は父も落ち着かない様子でしたが、職員に声をかけられ、食堂でほかの入居者と過ごす時間も増えていきました。
介護を家族だけで抱え込むと、本人にも家族にも限界が来ます。特養への入居は、冷たい選択ではありません。必要な支援につながることで、親子の関係を守るための選択でもあります。
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