サービス付き高齢者向け住宅での暮らしは順調なはずだった
「タクシーで帰ってきちゃった」
ある日の午後、信一さん(仮名・56歳)が玄関を開けると、母の節子さん(仮名・82歳)が小さなバッグを抱えて立っていました。
節子さんは3ヵ月前、サービス付き高齢者向け住宅、いわゆる「サ高住」へ入居したばかりです。夫を亡くしてから戸建てで一人暮らしを続けていましたが、前年に自宅の廊下で転倒。幸い骨折はしなかったものの、起き上がるまでに1時間近くかかりました。
長男の信一さんは車で40分ほどの場所に住んでいます。毎週様子を見に行っていましたが、仕事中や夜間に何か起きるのではないかという不安が消えませんでした。
「誰かがいる場所なら、お互い安心できるだろう」
家族で相談し、節子さん自身も納得したうえで、食堂や談話スペースのあるサ高住を選びました。居室にはトイレと洗面台、簡単なキッチンがあり、毎日の安否確認と生活相談を受けられます。
サービス付き高齢者向け住宅は、高齢者が暮らすためのバリアフリー構造を備え、安否確認と生活相談サービスを提供する登録制の賃貸住宅です。介護施設とは異なり、それ以外の食事、介護、医療、生活支援の内容は住宅によって異なります。
入居当初、節子さんは電話で「ご飯を作らなくていいから楽よ」「職員さんも親切」と話していました。信一さんも、母の生活が落ち着いたものだと思っていました。
ところが、節子さんが一人で外出したこの日、向かった先はスーパーでも病院でもなく、信一さんの家でした。
「外出届には買い物って書いたの。でも、気づいたらここまで来ていた」
信一さんが理由を尋ねると、節子さんはしばらく黙ったあと、こう答えました。
「みんなに心配をかけたくなくて言えなかったけど、あそこにいると、一日中誰ともちゃんと話さない日があるの」
食堂ではほかの入居者と同じテーブルになることもあります。しかし、すでに親しいグループができており、自分から会話に入るのが難しかったといいます。食事が終われば、それぞれ自室に戻ります。
職員は声をかけてくれますが、節子さんには忙しそうに見え、用事もないのに呼び止めることはできませんでした。
「家にいたころは、近所の人と立ち話をしたり、郵便屋さんにあいさつしたりしていたでしょう。ここは人がたくさんいるのに、前より一人みたいなの」
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