「大手の元部長」から、ただの「無職の65歳」へ
「松木さん、本当にお世話になりました。おつかれさまでした!」
65歳の定年退職の日、大手メーカーの営業部長だった松木さんは、花束と拍手とともに会社を後にしました。
新卒で入社、飛び込み営業からスタートし、常に第一線で数字と戦ってきた男。60歳を超えて役職定年・再雇用となり、給料が半分近くに下がっても、松木さんの気力は衰えませんでした。
「今の人には理解できないかもしれませんが、私は本当に仕事が好きだったんです」
社内での信頼は厚く、会社こそが自分の価値を証明できる居場所でした。しかし、いつまでもそこにいることはできません。65歳以降の継続雇用はないからです。
松木さんに、お金の不安はありませんでした。両親から引き継いだ不動産を売却し、60歳時に受け取った退職金や貯蓄で1億円以上の資産を保有。収入も、公的年金に加えて企業年金ももらえるため月28万円。同い年の妻の年金月10万円を合わせれば、十分な額です。
しかし、退職という華やかなイベントが終わった翌日から、松木さんを待っていたのは「空白の世界」でした。
「あれ、今日誰とも話してない」
リタイアから半年。朝、いつもの癖で6時に目が覚めます。しかし、やるべきことが思い浮かばないのです。
会社での人間関係は良好でしたが、退職してからもマメに会うほどの関係性ではありません。内閣府「第9回高齢者の生活と意識に関する調査」によると「性別問わず友人がいない」と答えた60歳以上の男性の割合は約4割を占めており、松木さんもまさに、その中に含まれている形です。
「それでも、やりたいことはたくさんあると思っていました。図書館で本を探し、新作の映画をチェックして、美術館で企画展を見て回る。ですが、どれも続かなかった。今じゃ、とりあえずテレビをつけてYouTubeで時間をつぶすことが多い。怖いのは、これが一生続くってことです」
一方で、妻は対照的でした。松木さんのリタイア後、ほどなくしてパートを辞めた妻は、地域のボランティアや友人とのランチで忙しく外出。「ようやく推し活が思う存分できるわ」と生き生きしています。
家には自分一人のときも多く、スマホに届くのは、メルマガとアプリのプッシュ通知だけ。妻が旅行に行った日の夜、静まり返ったリビングで「今日、朝から誰とも話していない」と気づいたとき、背中がゾッと冷えたといいます。
