「安心」の代わりに失ったもの…後悔しても簡単には戻れない
夫婦がつらかったのは、施設のサービスに大きな不満があったからではありません。
むしろ職員は丁寧で、食事も清潔な環境も整っていました。問題は、夫婦が思っていた「安心」と、実際に欲しかった暮らしが違っていたことでした。
隆平さんは、施設の決まった時間割に慣れませんでした。食堂での食事、イベントの案内、共有スペースでの会話。どれも便利なはずなのに、どこか自分の生活を誰かに預けているような感覚がありました。
紀子さんは、以前の家の台所を思い出しました。
「手間はかかったけれど、自分で献立を考えて、好きな器を出して、食べたいものを作っていたでしょう。当時は面倒にも思っていたけど、あれも生活だったのね」
住み替えを決めたときは、古い家の管理が負担に見えていました。しかし離れてみると、庭、台所、近所の人との会話、自由に出入りできる玄関、そのすべてが自分たちの暮らしを形づくっていたことに気づいたのです。
一度自宅を売却して施設へ入ると、元の生活に戻るのは簡単ではありません。別の住まいを探すにしても、引っ越し費用や次の住居費がかかります。年齢を重ねてからの住み替えは、体力面の負担も大きくなります。
隆平さん夫婦は、すぐに退去するのではなく、まず生活の組み立て方を変えることにしました。施設の食事を毎回利用するのではなく、ときどき外食をする。近所への外出を増やす。自宅時代の友人に連絡し、面会に来てもらう。居室には、以前の家で使っていた食器や写真を置きました。
老後の住まい選びでは、介護への備えや安全性は確かに大切です。けれど、それだけで暮らしの満足が決まるわけではありません。
どこで食べるか、誰と話すか、何時に出かけるか、どの程度自分で決められるか。そうした小さな自由が、高齢期の生活にとって大きな意味を持つことがあります。
資産が十分にあっても、選択を誤れば後悔は生まれます。大切なのは費用を払えるかどうかだけでなく、その場所で自分たちらしく暮らせるかどうかです。
住み替えを考えるときは、入居後の一日を具体的に想像し、できれば短期滞在や体験入居を通じて、自分たちに合うかを確かめることが必要なのかもしれません。
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