「ここなら安心」…自宅を手放して選んだ終の棲家
隆平さん(仮名・77歳)と妻の紀子さん(仮名・75歳)は、長年暮らした一戸建てを売却し、介護付き有料老人ホームへ入居しました。
夫婦の年金は合わせて月32万円ほど。自宅の売却代金や退職金、預貯金を合わせると総資産は約8,000万円ありました。子どもは独立しており、遠方で暮らしています。
「子どもに迷惑をかける前に、自分たちで決めよう」
そう考えたのは、隆平さんでした。
自宅は築35年を超え、階段の上り下りも負担になっていました。庭木の手入れ、外壁の修繕、給湯器の交換。暮らし続けるには、体力もお金も必要です。
見学した施設は、まるでホテルのようでした。明るいロビー、管理された食事、看護職員のいる安心感。趣味の講座やイベントもあり、パンフレットには「第二の人生を豊かに」と書かれていました。
「ここなら、最後まで安心して暮らせそうだね」
紀子さんもそう言い、夫婦は入居を決めました。
入居時費用は高額でしたが、総資産を考えれば十分払える範囲でした。月額費用も年金だけでは足りないものの、預貯金を取り崩せば問題ないと考えていました。
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得約22.2万円に対し、消費支出は約26.4万円で、平均では毎月約4.2万円の不足となっています。隆平さん夫婦は平均より年金も資産も多く、金銭面だけを見れば老後への備えは十分にあるように見えました。
ところが暮らし始めて数ヵ月が過ぎると、夫婦の表情は少しずつ曇っていきました。
食事は栄養管理され、掃除も不要です。困ったときには職員に相談できます。それでも、隆平さんは落ち着きませんでした。
「今日は好きな時間に風呂に入る」
「夕飯はいらないから、外で軽く食べる」
「庭の草を抜いて、少し汗をかく」
自宅では当たり前だった小さな自由が、施設では少しずつ制限されているように感じられたのです。
紀子さんも、近所の友人と立ち話をしたり、行きつけの店で買い物をしたりする日常を失いました。施設内にも知人はできましたが、昔からの関係とは違います。
ある夜、紀子さんがぽつりと言いました。
「こんなことなら家にいればよかった……」
隆平さんは何も言えませんでした。
