アメリカが世界経済の中心に
しかし、このような経済発展は第三の危機である1971年のニクソンショックによって壁にぶつかった。1960年代からのインフレの高まり、経済成長の鈍化、国際収支の悪化とドル不安への対応を余儀なくされたニクソン大統領は、賃金・物価凍結、10%の輸入課徴金とともにドル金交換の停止を打ち出した。
いずれも危機対応の一時的緊急措置と考えられたが、ドル金交換の停止は元に復することはなく、変動相場制という新たな国際金融体制が始まることとなった。
1944年に締結されたブレトン・ウッズ協定は、第二次世界大戦後の世界経済運営や、国際通貨管理において、米国の経済力を中心に据えることを取り決めたものだ。
欧州は戦場と化したため、戦勝国であっても経済力は大きく後退していた。そのなかで米国は本土での戦いがなかったため、自由主義陣営において経済力が突出していたのである。
ブレトン・ウッズ協定においては、米国を戦後の国際金融体制の中心に据えて、米ドルだけが金と交換できる唯一の通貨と決め、他国の通貨は米ドルとの為替レートを固定した。
ちなみに日本円は1米ドル=360円の固定レートが適用された。
「1ドル360円」はなぜ終わったのか
ニクソンショックは、こうした米ドルと金の交換を停止するとともに、米ドルと他通貨の固定レートを廃止するものだ。ブレトン・ウッズ体制の終焉である。
なぜ、このような政策を突然、打ち出したのかというと、米国経済の成長に陰りが見え始め、インフレが高進し始めていたからである。米国国内の成長余力が低下したため、米国企業はより高い収益を求めて海外に進出し多国籍化した。
その結果、米国の海外への直接投資、軍事支出、政府援助、政府借款などによって、海外に大量の米ドルが流出、交換を義務づけられている米国の金準備が不足してしまった。
当時、経済学者トリフィンが提起した流動性のジレンマという仮説が語られた。基軸通貨国米国が世界経済の成長に必要な通貨(ドル)を供給し続けると、ドルの信認が低下し、その地位が揺らぐという矛盾である。
このとき、米国には2つの選択肢があった。ひとつは米ドルの価値を守るために金融引締め政策を行い、高金利により米国から海外に資金が流出しないようにすることだ。不況甘受の政策である。もうひとつはドルの下落の容認である。
当時のニクソン大統領、そしてポール・ボルカー財務次官は、米ドルの大増刷を行った。
ニクソンショック以前は、米国が保有している金準備以上に米ドルを刷ることに躊躇していたが、米ドルと金の兌換を停止したことによって、金の保有量に関係なく米ドルを刷れるようになったのだ。
その結果、世界中に米ドルが流通するようになり、世界経済が飛躍したのと同時に、米国国内では金融緩和や規制緩和が進められ、米国の株式市場や債券市場の規模がどんどん拡大していった。
幸運なことに、ドルの増刷で金価格は急騰したものの、恐れられていたドルの暴落は起きなかった。世界中にばらまかれた米ドルが、今度は運用先を求めて米国の金融市場に還流するという循環が生まれたからである。
米国金融市場の魅力度の高まりが、金との交換性喪失によって傷ついたドルの価値を補ったといえる。
またドルの価値の維持により米国国民の購買力は守られた。トリフィンが懸念したジレンマは見事に回避されたのである。
もっとも、1970年代末~1980年にかけて米国歴史上最大のインフレに見舞われた。ゴールデン・フィフティーズ&シックスティーズの長期好況のもとで生産性を大幅に上回る賃金上昇が定着、企業経営者はコスト上昇を安易に価格転嫁するという慣行が定着、そこにドル金交換の停止とオイルショックが重なったためである。
その後、原油価格は高止まりしたものの、企業の厳しいリストラとユニットレーバーコスト(単位あたり労働費用)引下げの努力が浸透し、物価上昇率は急速に低減した。
もしもドル流出の危機に金融引締めで対処していたら、世界は大不況に陥り、その後のアジアの発展はなかったであろう。米国民の生活水準向上も頓挫していただろう。

