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悲しむ間もなく突きつけられた現実
「悲しむ余裕なんて、1秒もありませんでした。主人が遺した通帳を開いた瞬間、私の涙は止まりました」
川島由美子さん(仮名・58歳)の平穏な日常は、3年前、働き盛りだった夫の正一さん(仮名・当時55歳)の突然の死によって終わりを告げました。「これから二人でゆっくり老後を」と語り合っていた矢先の急逝。
しかし、遺品整理で判明したのは、語り合っていた「夢」とは正反対の無慈悲な現実でした。
正一さんは、共済組合に所属する堅実な会社員でした。由美子さんは結婚以来、「金に関することは俺がやるから、お前は家のことをしてくれ」という正一さんの言葉を信じ切っていました。年収が800万円近いことは知っていましたが、貯蓄がいくらあるのか、住宅ローンの残債がいくらなのか。
その「家計の内実」は、由美子さんにとって完全なブラックボックスだったのです。
子どもがいなかったこともあり、正一さんは「二人の生活」を華やかに彩ることに執心していました。住まいは都心の分譲マンション、休日は高級ゴルフ場でのプレーや、ミシュラン星付きのレストランでの会食。
家族旅行も常に海外の一流ホテル。由美子さんはそれを「余裕があるからできること」だと思い込んでいました。しかし実際には、年収800万円という決して少なくない収入のほぼすべてが、その「華やかな暮らし」を維持するために消えていたのです。
生活の拠点だった分譲マンションのローンは、正一さんの死に伴う団体信用生命保険(団信)で完済されました。しかし、正一さんが管理していた通帳に刻まれていたのは、わずか「3万円」という、信じられないほど心許ない数字でした。
「頭が真っ白になりました。専業主婦だった私には自分の蓄えもありません。主人を頼りに生きてきた報いが、一瞬で経済的な孤立無援へと私を突き落としたんです」
「死亡退職金」が支給されるも半分以上が支払いに消える
唯一の救いは、正一さんの急逝に伴って共済組合から支給された「死亡退職金」でした。約800万円という大金が口座に振り込まれたとき、由美子さんは一時の安堵を覚えました。しかし、その安堵は長くは続きませんでした。
葬儀費用や法要、お墓の準備などで約350万円。さらに、正一さんが生前に組合から受けていた住宅関連の貸付金の一括清算や、最後の月の高額なカード決済、そして数十万円にのぼる未払いの住民税……。
「一息つく間もなく支払いを済ませて、手元に残ったのは200万円にも満たない金額でした」
また、ローンが消えたとはいえ、マンションの管理費、修繕積立金、固定資産税だけで毎月5万円以上が自動的に引き落とされます。由美子さんの生活を支える唯一の柱は、月々11万円ほどの遺族年金だけ。
「遺族年金だけでは、今の家を維持するだけで精いっぱい。食べるためには55歳を過ぎたこの体で、もう一度社会に出るしか選択肢はありませんでした」
しかし、ハローワークで突きつけられたのは、長年家庭に入っていた女性に対する冷遇でした。
「まともな求人なんて一つもない。あるのは時給の低いパートだけ。主人に先立たれた悲しみよりも、明日の生活費への恐怖が勝ってしまう。そんな自分が情けなくて仕方がありませんでした」
キャリア・資格なき再就職で待ち受ける残酷な日々
由美子さんを待っていたのは、資格もキャリアもない50代後半の女性に対する、社会の冷徹な現実でした。
「若いころに事務の経験はありましたが、30年のブランクの前ではなんの意味もありませんでした。結局、私に務まるのは、清掃パートや深夜に近い時間帯のスーパーの品出しだけでした」
現在は二つの仕事を掛け持ちし、朝から晩まで立ち仕事に追われています。月のパート代は合わせて12万円ほど。遺族年金と合わせれば、月に23万円ほどの収入になります。
「どれだけ必死に働いても、通帳の数字はほとんど増えません。主人が遺したわずかな貯金を、生活費の補填として毎月少しずつ削り取っていく。いつかその数字がゼロになったとき、私はどうなっているのか。それがなにより恐ろしいんです」
急な病気やケガで仕事を休めば、その瞬間に生活は破綻します。それでも、由美子さんには立ち止まる自由はありません。
「いつまでこの体が動くのか。夜、一人で静まり返った部屋にいると、いつかこの家さえ手放さなければならない日が来るのではと、そればかり考えてしまいます。でも、主人との思い出が詰まったこの場所を失ったら、私にはなにも残らない……」
由美子さんにとっての「老後」は、安らぎの時間ではなく、いつ尽きるとも知れない貯金残高と、いつまで続けられるかわからない労働との、終わりなき戦いになってしまいました。
「急に逝ってしまうなんて、残されたほうは地獄です。せめて主人が少しでも貯金をしてくれていたら。私はもう少し、一人の妻として静かに主人を悼む時間を持てたのに……」
