ダブルショックで日本経済は大打撃
1.ニクソンショック…急激な円高進行で訪日旅行者減
ところがそういう熱狂は長くつづかなかった。1975年(昭和50)の夏、突然大きな変化が起きる。米国発のニクソンショック(ドルショック)と、それに端を発した変動相場制移行、円高進行である。
第二次世界大戦後の国際経済は、通貨安定のために金ドル本位制度と固定為替相場制(ブレトン・ウッズ体制)を採用していた。しかし1960年代に入ってからベトナム戦争での軍事費拡大などで貿易赤字と財政赤字に悩むようになった米国は、金保有量が激減したために金ドル交換ができない状況となり、ドルへの信認が大きく揺らいだ。
この防衛のため当時のリチャード・ニクソン大統領は1971年8月15日、テレビとラジオで演説し、米ドルと金の兌換停止をはじめとする七項目からなる「新経済政策」を発表した。各国がそれを知ったのは発表のあとで、まさに「ショック」だった。為替相場はほとんどの先進国で大荒れとなった。年末には米ドルの切り下げを主要十カ国が容認したが、これによって日本円とドイツマルクがとくに大きな影響を受けた。
1ドル360円で固定されていた円は73年2月になってついに変動相場制に移行し、円高がしだいに進行していった。円高が急に進めば、主要国からの日本投資や観光需要は減退する。とくに訪日旅行市場別で5割前後のシェアを占めていた米国がそういう状況であれば、観光業にとっても大きな痛手である。
大阪万博の開催年をピークとして訪日旅行は停滞し、それから4、5年は成長が止まったままとなる。円ドル相場は73年から76年にかけて、政府・日銀による介入もあり300円台に近づく動きもあったが、78年10月には152円をつけ、それからは円高が定常的なものとなっていった。
海外市場の需要が減ったなら、国内市場でカバーすればいい――。そういう論理はしかし、世界の主要都市を代表するような高級ホテルの宿泊部門では通用しない。格式が高いホテルほど主要国の市場バランスにはこだわり、その万遍のなさが格式の裏づけとなる。いくら長い歴史があろうが、どこかの市場に偏ってしまっているホテルは「格式あるホテル」とはいいがたい。だから円高が急激に進もうとも、主要ホテルにとって米欧主要国はなんとしても旅客を確保しなければならない市場だった。
2.第一次オイルショック…戦後はじめての経済マイナス成長
さらには、ニクソンショックのつぎなるショックが日本を襲う。第四次中東戦争に端を発した第一次オイルショック(73年10月~74年8月)である。戦乱で中東からの石油輸入ルートが寸断されれば、日本の生産活動や物流が立ちいかなくなり、深刻な物資不足に陥る。
そういう噂が巷で一気に拡散して、不安に駆られた庶民がトイレットペーパーや洗剤、調味料など生活必需品の買いだめに走り、スーパーや小売店の棚からそれらがすっかり姿を消してしまった。さらに石油関連製品はすべて値上がりして急激なインフレが訪れ、「狂乱物価」という流行語が生まれる。そのため順調だった日本経済に急ブレーキがかかり、74年度は戦後はじめての経済マイナス成長となった。
それは1957年から長くつづいた高度経済成長の終焉を意味し、消費拡大を煽って成長につなげるそれまでの風潮がみなおされることになる。
この石油危機の直後に作家の堺屋太一が発表した小説『油断!』は大ベストセラーとなった。イラン革命とその後のイラン・イラク戦争を発端とする第二次オイルショック(78年10月~82年4月)も影響が大きかった。イラン、イラクとその周辺国での採油が滞った結果、国際原油価格は3年間で約2.7倍に高騰し、世界に激震が走った。ただ、このときは第一次オイルショックのときの反省が生かされて、日本では社会的混乱があまり生じなかった。
日本は第一次、第二次オイルショックを契機に「エネルギー安定供給政策」を強化し、石油供給ルートの多角化、エネルギー源の多様化、省エネ運動などを進めていくことになる2)。
