日清戦争の後、日本とロシアとの関係が徐々に悪化
朝鮮半島での大韓帝国の親露化に伴い、当初は利権確保のために日本もロシアと強調
三国干渉後、朝鮮が清に代わってロシアに接近すると、親日政権樹立を図った日本公使の指示のもとで閔妃[びんひ]殺害事件が発生しました。しかし、国王高宗はロシアの保護下で親露政権を樹立し、皇帝に即位して国号を大韓帝国(韓国 1897)としました。日本は韓国の利権確保のため、ロシアと協調しました。
中国分割に際して、ロシアが満州進出を強化したことで、日本も軍拡化を加速
列強は、清の日本への賠償金を肩代わりする見返りとして、租借地(一定期間植民地とする)や勢力範囲(経済的な権利を独占する)などの利権を清へ要求し、中国分割が進みました。そのなかで、ロシアは中国東北部の満州進出を強化し、清の領土内に東清鉄道を作る権利を得てシベリア鉄道と連結させ、さらに遼東半島先端部の旅順・大連の租借権(1898)を清から得ました。三国干渉で日本が清へ返した場所をロシアが奪取したのです。
この情勢をうけ、〔第2次山県内閣〕のもとで憲政党は軍拡のための地租増徴(2.5%から3.3%へ)に賛成しました。一方、太平洋方面に勢力を広げていたアメリカは、ジョン = ヘイ国務長官が中国の「門戸開放」(すべての国に自由な市場として開放)を宣言し、中国市場への参入を図りました。
北清事変を機に、ロシアが満州支配を一気に進める事態に
清では列強の中国分割に対して不満が高まり、「扶清滅洋」を唱える結社を中心に民衆が蜂起する義和団事件が発生すると、清国政府はこれに乗じて列強に宣戦布告しました(北清事変 1900)。これに対し、列強は日本・ロシアを中心に共同出兵して鎮圧し、北京議定書で賠償金と北京への軍駐留権を獲得しました(この北京駐留日本軍が、のち中国軍と衝突して盧溝橋事件が勃発)。
日本国内での対露強硬論が強まり、日英同盟協約を締結
このときロシア軍が満州を占領し、北清事変の終結後も占領を継続したことが、日本にとって問題となりました。東清鉄道南部支線の建設や、旅順の軍事基地化も進み、満州と隣接する韓国での日本の権益が脅かされました。
政府内では、ロシアの満州支配と日本の韓国利権を互いに認め合う「満韓交換」を交渉すべきだという日露協商論が唱えられました(伊藤博文ら)。しかし、満州からロシアを排除すべきだという対露強硬論が優勢となり(山県有朋ら)、〔第1次桂内閣〕のもとで日英の韓国・清国利益を互いに保護する日英同盟協約(1902)が結ばれて、日露の直接対決の機運が高まりました。
非戦論から主戦論へ 日露戦争に対する国内世論の変化
国家主義団体の対露同志会や、七博士意見書を政府に提出した戸水寛人などが主戦論を主導し、発行部数の多い新聞『万朝報』が非戦論から主戦論へ転じたことも世論へ影響を与えました。
そして、同紙記者として非戦論を主張していた幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が『万朝報』を退社すると、幸徳秋水・堺利彦は労働者階級を擁護し社会平等をめざす社会主義の立場から反戦論を唱え、平民社を結成して『平民新聞』を発行し、内村鑑三はキリスト教人道主義の立場からの反戦論を唱えました。
また、開戦後、与謝野晶子は反戦詩「君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中にある弟を嘆きて)」を雑誌『明星』に発表しました。戦争に異を唱える声もありましたが、国民の多くは戦争支持でした。