「55年体制」の成立
公職追放解除で、もと日本自由党総裁鳩山一郎が政界に復帰したのち、〔第5次吉田内閣〕で造船疑獄事件が発生すると、鳩山は吉田との対抗姿勢を強め、鳩山のもとに結集した反吉田勢力が自由党から脱党しました。
そして、日本進歩党・民主党系の政党に合流して日本民主党が結成されました。吉田は総辞職を決意し、日本民主党が与党の〔鳩山一郎内閣〕が成立しました(1954)。
鳩山は、「自主憲法制定(改憲)・再軍備」方針を掲げました。日本国憲法がGHQ案をもとにしたことから、日本人の手で新憲法を作るという口実で憲法改正を主張したのです。これに対し、左派社会党と右派社会党は「憲法改正反対(護憲)・再軍備反対(平和)」を唱えて鳩山と対立しました。
そして、解散・総選挙で(1955)、左右社会党は改憲の阻止に必要な3分の1の議席を確保しました。改正発議には衆参両院で議員の3分の2以上の賛成が必要なため、発議は不可能となったのです。日本社会党は、左右統一を果たしました。
一方、少数与党だった日本民主党は過半数に達せず、日本民主党と自由党は保守合同を進め、自由民主党(1955)を結成しました。こうして、保守の自由民主党が過半数を確保して単独与党となり、革新の日本社会党を中心とする野党が3分の1を維持して対抗する、55年体制が成立したのです。この体制は次の〔石橋湛山内閣〕に受けつがれ、1993年まで続きました。
ソ連との国交回復
核兵器開発競争が激化する一方、東西対立が緩和される「雪どけ」が進みました。1953年、朝鮮休戦協定が結ばれ、冷戦構造を作り上げたソ連の指導者スターリンが死去しました。のち、ソ連は「東西平和共存」を表明しました。
第二次世界大戦後にアジア・アフリカ諸国の独立が進むと、東西両陣営のどちらとも距離を置く「第三勢力」が国際社会で影響力を持ち始めました。中国・インドを中心にアジア・アフリカ会議(1955)がインドネシアのバンドンで開かれ、反植民地主義・民族主権などの「平和十原則」が採択されました。
鳩山一郎内閣は、どのような外交上の成果を上げたのか?
〔鳩山一郎内閣〕は、これまでアメリカ一辺倒だった吉田外交のあり方を批判し、「自主外交」の方針を掲げてソ連との関係改善をめざしました。「雪どけ」の広がりによる冷戦の緩和もあって、日ソ共同宣言(1956)が調印され、日ソ間の戦争状態が終了して国交が回復しました。
そして、ソ連が日本の国際連合加盟を支持したため、日本は国際連合への加盟を実現しました(1956)。一方、平和条約を結んだ後に歯舞群島・色丹島が引渡されると規定され、平和条約を結ばない限りは「北方領土」問題が解決しないことになったのです。
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