サンフランシスコ講和と独立(1950年代前半)
朝鮮戦争と日本の独立
1950年に始まった朝鮮戦争は、「冷戦」が「熱戦」になった事態と言えます。
北朝鮮が南北統一をめざして北緯38度線を越え韓国を占領すると、国連安保理がソ連欠席のまま北朝鮮への武力制裁を決定し、それに応じてアメリカ軍が国連軍として参戦し、押し返しました。ところが、アメリカ軍が北緯38度線を超えて北朝鮮を占領すると、中華人民共和国が人民義勇軍を参戦させて北朝鮮を支援し、北緯38度線まで戦線を戻し、最終的に板門店で休戦協定が調印されました(1953)。そして現在も休戦状態が続き、平和条約は締結されず、戦争はまだ終わっていないのです。
朝鮮戦争が日本に与えた影響
GHQに朝鮮戦争への対応を迫られた〔第3次吉田茂内閣〕は、レッド・パージ(共産主義者の公職追放)を進めました。さらに、日本占領軍が朝鮮半島へ出動した軍事的空白を埋める目的で警察予備隊(1950)を創設し、再軍備を開始しました。また、公職追放が解除されて戦前の議会政治家が政界へ復帰し、GHQの支援で反共の日本労働組合総評議会(総評)も結成されました。
アメリカは国際戦略上の日本の重要性を認識し、米軍の日本駐留継続のため、早期講和による日本の独立と「西側」への編入を画策しました。そして、吉田は日本の防衛負担が軽減されれば経済復興へ集中できると考え、「西側」との単独講和を進めました。一方、「東側」を含む全交戦国との全面講和論も展開されました(社会党は全面講和論の左派と単独講和容認の右派に分裂)。
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