入居者に「地域住民と触れ合う機会」を設けることのリスク
筆者「居住支援法人格を持つ、持たないにかかわらず、あまりにも世間一般でいう大家にいろいろなことを被せていませんか? 仰っていることは法務・検察というか、行政の下請けをやれ。そう聞こえますが」
発言を求めて立ち上がり、こうまくし立てる筆者にお役人は笑みを浮かべながらこう仰る。
「我々は綺麗ごとばかり言うとよくお叱りを受けます。でも、我々がその綺麗ごとを言わなければ社会はどうなるのですか? ここはひとつ天下国家のために、お骨折り頂きたい」
ときに綺麗ごと、正論は人や組織を安く買い叩くときの方便として用いられる。
ましてや天下国家という言葉までつけ加えるとなると、これは、「お骨折りしないと、この国の国民として認めませんよ」という遠回しな脅迫ではないか。
筆者はさらに質問を重ねた。
筆者「ではお伺いします。地域住民との触れ合いの機会を大家の責任で作れと仰いました。これは昔ならもちろん、いまでもそうですよ。刑務所帰りの人を入居させたとご近所に知られたら、当の本人が近隣住民から白眼視されます。大家である私自身もそういう目で見られたことがあります。まずはそういう現状をご存じですか?」
検察庁のお役人は微笑みを絶やさず、だが険しく、そして厳しい目で筆者を見据えた。
「それをですね。これからは変えていく必要があるのですよ」
どう変えろというのか。ますます腑に落ちない。筆者はさらに質問を重ねた。
筆者「刑務所帰りの人や元犯罪者だった人を温かく見守る社会にですか? それは無理でしょう? いくら時代が進み、社会で多様性を認めようという時代になっても、これはそう簡単に変えられるものではありません。まずはその前提に立つべきではないですか?」
検察庁のお役人は、鬱陶しそうな目で筆者を見やりながら言う。
「だからこそ、地域住民の方との触れ合いの機会を設けて頂きたい」
地域住民と触れ合う機会を無理やり作れば、勢い、地域住民の間で「今度、引っ越してきた人は前どこに住んでいたのだろう」と話題になる。その際、「刑務所帰りの新たな住民」と地域住民に紹介しろというのだろうか。
それを伏せたとしても、筆者のようなワケありな人たちを専門とする大家がその入居者を地域住民に紹介すれば、それだけで「ムショ帰り」だと悟られるだろう。それはこれから社会復帰しようという人たちにとって、果たしてプラスになるのかどうか。
筆者はマイナスにこそなれ、プラスになることはないと思っている。