「三方ヶ原」撤退…家康は本当に馬上で脱糞したのか?奇妙な肖像画「しかみ像」の謎

「三方ヶ原」撤退…家康は本当に馬上で脱糞したのか?奇妙な肖像画「しかみ像」の謎
(※写真はイメージです/PIXTA)

徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて敗走したとき、あまりの恐怖に馬上で脱糞したという。そのとき、戒めとして自画像を描いたのが有名な「しかみ像」といわれています。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。

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「しかみ像」は本当に家康が描かせたのか

■三河武士の見事な死にざま

 

合戦から6日後、馬場信春が武田信玄に次のように報告したと『甲陽軍鑑』は記している。

 

「家康は31歳と年は若いけれど、越後の輝虎(上杉謙信)、家康の両人をおいて、剛の大将はございません。このたびの三方ヶ原の合戦で戦死した三河武士の死にざまには、頭が下がります。下々にいたるまで、勝負を挑んでこなかった者は1人もなかったのです。そのことは、死骸の向きを見るとわかります。こちらの方に向かって倒れている者はいずれもうつむきになり、浜松の方に向かって倒れている者はこれまた、例外なくあおのけになっていました」

 

三河武士の闘魂を激賞した馬場信春は、こう付け加えた。

 

「重ねて申し上げますが、わが国で猛将の家門を2つ上げるとしたら、上杉謙信と徳川家康ではないでしょうか。そう思うので、家康とは和睦して味方につけ、先陣役を担わせたなら、当年中にも中国はおろか、九州でも信玄公に逆らおうとする者はいなくなり、4、5年のうちに日本を統一できるのではないでしょうか」

 

しかし現実は、その逆となる。三方ヶ原の合戦後、家康に近づいたのは、“信玄の終生のライバル”謙信だったのだ。

 

上杉謙信は、三方ヶ原の戦いが始まる2か月前に、家臣の河田重親(沼田城の城主)に送った手紙で、こう予想していた。

 

「織田信長と徳川家康が信玄と敵対するのは疑う余地がない。その結果、信玄の運も、ついに極まるのではないか」

 

家康は、これより2年前(1570〈元亀元〉年10月)にすでに謙信に誓書を送っているだけでなく、贈答品のやり取りもするなど、親交を深めていた。具体的にいうと、元亀2(1571)年2月に新春の祝いとして「守家」の刀を贈り、夏には「唐頭」を贈ったのである。

 

守家は、鎌倉時代の備前国(岡山県南東部)の刀工畠田守家の手になる刀だが、畠田守家という名が「田畑と家を守る」という意味に解釈され、縁起が良いといわれていたのである。

 

唐頭は、貴重品だった。唐の国(中国)渡来のヤクの尾の毛を付けた兜のことである。信玄の家臣小杉右近は、三方ヶ原の戦いの前哨戦「一言坂の戦い」で殿軍として本多忠勝が大活躍したのを見て、「家康にすぎたるものが二つあり。唐の頭と本多平八」といったという。それくらい珍重されたようで、謙信は、唐頭をもらった返礼として「鴇毛馬」を家康に送っている。

 

鴇毛馬とは、毛がピンク色をしたきわめて珍しい馬のようだ。

 

■奇怪な肖像画「しかみ像」の謎

 

三方ヶ原の戦いから多くの人が連想するキーワードの1つに、戯画風に描かれた奇妙奇天烈な家康の肖像画「しかみ像」がある。「しかみ」は、漢字では「顰」と書く。「しかめっ面」のことだが、実際、しかみ像の家康の表情は肖像画にあるまじき表情をしている。その絵をもとにして造った石像の「しかみ像」が名古屋の岡崎公園にある。

 

今日、肖像画「しかみ像」は徳川美術館が所蔵しており、「誰が描いたか」は判明しているが、「誰が描かせたか」については3つの説がある。

 

当初の説は家康自身で、戦場から命からがら逃げかえった何とも情けない自分自身の姿を終生忘れないようにと思って、絵師に描かせたというものだった。「さすが家康、人間ができている」と感服する人が多かった。

 

ところが、昭和11(1936)年になって、家康の子孫である徳川義親(尾張徳川家19代当主)が「あの絵は、尾張徳川家の初代義直が描かせた」と説明した。義直は家康の9男で、母は家康の側室お亀の方(相応院)である。しかし、世間はその説を信じず、家康自身が描かせたという従来の説を受け入れ続けた。私も、ずっとそう思ってきた。

 

と、今度は平成28(2016)年になって、徳川美術館の学芸員が講演会で「あの絵は、実は紀州徳川家から尾張徳川家の9代当主宗睦の嫡男に嫁いだ従姫(紀州徳川家宗将の娘)が嫁入り道具として持参したもの」という新説を発表した。

 

以上の3説がある“謎のしかみ像”は、家康が脱糞するほどの恐怖に直面した三方ヶ原の合戦で迫真の姿とされているが、「長篠の戦い」にまつわる絵と解釈された時代もあり、描いたのは江戸幕府の奥絵師だった狩野探幽(1602〈慶長7〉~1674〈延宝2〉年)といわれた。

 

となると、三方ヶ原の戦いは1572(元亀3)年なので、探幽はまだ生まれていないし、探幽が幕府の御用絵師になるのは16歳、家康が死んだ翌年(1617〈元和3〉年)のことである。“狩野派中興の祖”永徳の孫で、孝信の長男の狩野守信が「探幽」と号するのは1635(寛永12)年のことだ。

 

上記のことを総合的に考え合わせると、探幽が描いたかどうかも怪しい。いずれにせよ、謎が多い絵画ではある。

 

徳川家康は、死ぬと日光東照宮に祀られて「神君」という、これ以上はない最高の呼ばれ方をするようになるが、信長も秀吉もなしえなかった260年以上も続く江戸幕府を開いた大英傑だけに「神話」や「伝説」も数多い。

 

家康の言葉としてよく引用される「人生は重荷を負って」云々という次の言葉も、当人がいった言葉ではなく、後世の誰かがまとめたとされてはいるが、家康の人生や人柄を考えると、「しかみ像」を自身が描かせたという説と同じく、「そういうことをいった可能性は否定できない」と思えてくるから不思議だ。一言でいうなら、家康の「人徳」ということになるのではないか。家康の「人生論」は、あまりにも有名で、しばしば引用され、現代語訳しなくてもわかるので、原文を引用する。

 

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望み起らば、困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つことばかり知って、敗くることを知らざれば、害、其の身に至る。おのれを責めて、人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに優れり」(原文)
 

 

城島 明彦
作家

 

 

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※本連載は城島明彦氏の著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)より一部を抜粋し、再編集したものです。

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

城島 明彦

ウェッジ

天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。 だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。 家康の人生に訪れた大きな「決断」を読者が追体験しつつ、天下人にのぼりつめることができた秘訣から…

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