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自刃寸前の家康を救った夏目吉信
■爪を噛み、鞍を叩き、脱糞した家康
家康は、緊張したり苦境に立たされたりすると、決まって、ある癖を連発した。床几に腰かけているときは爪を噛み、馬上にあれば鞍壺を拳で激しく叩きまくりながら大声で号令をかける癖である。この癖から推測できるのは、家康には「克己心」という言葉では説明できないくらいの激しい「自己抑制感情」があったということだ。
この日も例外ではなく、家康はさかんに爪を噛み続けたが、どんなにあがこうとも、もはや立て直しがきかないところまで追い詰められていた。
家康は腹をくくり、自分を警護している馬回り組の旗本たちにいった。
「かくなる上は、潔く死ぬだけだ。玉砕覚悟で突っ込むか、自刃するか。選択肢は2つに1つしかないが、敵に首を取られるくらいなら、この場で自刃する方をわしは選ぶ。敵にわしの首を渡すでないぞ」
血相を変えて駆け寄る家臣が現れたのは、まさにその瞬間だった。
「何を血迷われた。ここは、ひとまず逃げる一手でござる」
夏目吉信だった。夏目は城で留守居をしていたが、戦況を知って、いてもたってもいられなくなり、25騎を率いて押っ取り刀で駆けつけてきたのである。吉信をそこまで駆り立てたのは、三河一向一揆で一揆側に身を投じたのに、黙って家臣に復帰させてもらった恩義を返したかったからではないだろうか。死に場所を求めていたのだ。
吉信は、馬から飛び降りると、やにわに家康の馬の轡<くつわ>をとらえ、馬首を浜松城に向けさせると手にした槍の柄で馬の尻を思いっきり叩いた。馬は城へ向かって暴走した。家康は、振り落とされてはならじと必死にしがみつき、かろうじて浜松城へと逃げ込んだ。
下馬しようとして、家康は、とんでもない失態をやらかしていたことに気づいた。どこで漏らしたのか、恐怖のあまり、馬の鞍壺に脱糞していたのだ。作り話のように思えるエピソードだが、紛れもない史実である。それほどの恐怖を感じていた家康だったが、搦め手の玄黙口の門をくぐった途端、はっと我に返り、大音声で家臣に命じた。
「城門をすべて開け放ち、篝り火を焚け」
この策は、明代に書かれた羅貫中の名作『三国志演義』に登場する「空城の計」といわれる策のように思われるが、それを参考にしたかどうかは不明だ。
『三国志演義』では、「蜀の軍師諸葛亮(孔明)は、部下の馬謖が命令を無視して野戦『街亭の戦い』で魏の司馬懿(い/仲達)に大敗したとの報せを聞くと、押し寄せてくる15万の大軍に空城の計を仕掛けることを思いつき、城内に残る2000の兵に『四方の城門をすべて開け放て。門前を掃き清めて水を撒け。篝火を焚け』と命じ、自身は楼上に登って酒を飲みながら悠然と琴を弾じた。すると、敵将の司馬懿は『誘い込もうとしているな。何か仕掛けがあるに違いない』と訝って撤退した」という筋書きになっている。
もう一つ付け加えると、「泣いて馬謖を斬る」という諺も『三国志演義』が出典だ。
家康の場合は、城門を開けさせるなどした後、「腹が減った」といって奥女中に湯漬を持ってこさせ、立て続けに3杯平らげた。と見るや、その場に寝転んだかと思うと、高いびきをかいて熟睡した。ここが常人と大きく違うところだ。
一方、家康の命を救った夏目吉信は、殺到する武田軍と身を挺して戦い、討ち死にした。吉信の部下たちも同様だった。三方ヶ原の戦いを述べる上で欠かすことのできない働きをした夏目吉信は、実は夏目漱石の先祖だといわれている。
武田軍はといえば、先鋒の馬場信春、山縣昌景の軍勢が浜松城の城門付近まで押し寄せたものの、何か仕掛けがあるのではないかと怪しみ、突入をためらっていた。そこへ遅れて帰城した大久保康高らの一隊が来合わせ、背後から攻撃した。それを見た鳥居元忠ら100余人が城から打って出、武田軍を退却させたが、家康の策はそれで終わりではなかった。
その夜、信玄が野営したのは犀ヶ崖のそばだった。家康は、銃撃兵16人・軽卒100人に命じて武田軍の背後に忍び寄らせ、鉄砲を乱射させた。
そのときの武田軍の反応を、『柏崎物語』は「雪は強し。寝ぼけて方角を取り違え、犀ヶ崖へ追い込められ、死亡大分之あり」と書いている。驚いて逃げ惑った数十人が犀ヶ崖の奈落へ転落、戦死したのである。信玄は事前に地理を詳細に調べさせていたが、地元の家康にはかなわなかったのだ。