「大高城の兵糧入れ」は序章に過ぎない
■大高城への兵糧入れ
一方、信長の陣営では、次の段取りが決められたと『常山紀談』(東照宮大高城へ兵糧を入れ給ひし事)は記す。
「大高城に兵糧を運び入れるのを見届けたら、鷲津砦と丸根砦に向かって、法螺貝を吹き鳴らせ。寺部・挙母・広瀬の各砦の兵は、それを合図に馳せ参じ、丹下・中嶋の両砦の兵は後詰(救援)に回るのだ」
そういうこともあろうかと、元康は一計を案じた。
兵糧米を1200頭の馬に乗せ、それを800の兵に守らせながら、大高城へと向かった。そして城から1~2キロメートルほど離れた場所に待機させると、先陣を寺部砦へ突入させた。
急襲にあわてふためく敵を尻目に、今川の兵は一の木戸口を打ち破って火を放ち、梅坪砦に押し寄せて三の丸まで攻め入り、そこでも火を放った。炎上する味方の砦をみて、鷲津・丸根両砦の兵は救援に向かった。
元康は、その間隙を縫って、まんまと兵糧を城内に運び入れることに成功したのだった。
丸根・鷲津両砦に残った守備要員たちは、その様子を目にしたが、もはや後の祭り。元康は、城を囲んでいる織田の兵をさらに後ろからぐるりと取り囲む「後巻」作戦を命じていたので、手も足も出なかった。岡谷繁実(幕末の舘林藩士)の名著『名将言行録』は、敵を見事に出し抜いた「大高城の兵糧入れ」の記述の文末を次のように締めくくっている。
「人々はみな、その謀略に感服した」
家臣たちから、あのような戦術をどうやって思いついたのかと聞かれた元康は、
「兵法に『兵は神速を尊ぶ』(合戦は神業のような速さが命)とあるし、『奇襲』という教えもある」
と、こともなげにいったという。
神速を尊ぶは『三国志』( 魏志・郭嘉伝)に出てくる郭嘉(魏の曹操の軍師)の教えで、『孫子』(作戦篇)の「兵は拙速を聞くも、未だ巧久<こうきゅう>なるを賭<み>ざるなり」(合戦では、拙くても速い方が巧くても遅いのにまさる)と相通じる兵法の金言である。また、奇襲については、「凡そ戦いは、正を以て合し、奇を以て勝つ」(戦いの基本は、定石通りの正攻法が無難だが、ここぞというところでは奇襲が効果を発揮する)と『孫子』(勢篇)にある。
家臣たちは、口々に元康を称賛した。
「殿は、臨済宗の僧雪斎から兵法の手ほどきを受けてこられたが、兵書をどんなに読み習っても、あのような素晴らしい謀(はかりごと)は出てくるものではないぞ」
「あの才は天賦のもので、19歳にして、はや大将の道を会得しておられるのだ」
まさに後世、「大高城の兵糧入れ」と呼ばれて語り草となる元康の大手柄だったが、このエピソードは次に起こる“驚天動地のまさかの大事件”のほんの序章にすぎなかった。桶狭間で義元が信長に殺され、戦国の梟雄は42歳の生涯を閉じたのである。
城島 明彦
作家
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