信長の常識破りの大胆不敵な奇襲攻撃
■桶狭間の戦い
1560(永禄3)年5月19日に行われた「桶狭間の戦い」は、27歳の戦国大名織田信長の名を一躍全国にとどろかせた。10倍以上の軍勢を擁した今川軍の大将義元を少人数の兵で急襲し、首を取るという離れ業をやったからである。
戦いに勝利した信長が「明日、清須で首実検する」と部下に下知した今川軍の戦死者の数は「将兵583人、雑兵2500人」(『天澤寺記』)にのぼったという。
そのときの信長の様子を『信長公記』は、次のように表現している。
「義元の首を眺めて、とても満足そうであった」(よしもとの頸を御覧じ、御満足不斜)「勝敗は時の運」というが、桶狭間の戦いほど、大方の予想を裏切り、「天の時、地の利、人の和」の歯車がうまく噛み合った合戦はなかったといってよいだろう。
まず「天の時」だが、急に降ってきた激しい夕立である。豪雨に霞んで視界がぼやけ、山中で小休止して昼食をとっていた今川軍の本陣に迫る織田軍の音も動きも察知できなくなった。
おまけに、先鋒隊の松平元康(後の徳川家康)らの奮戦で、織田方の丸根砦、鷲津砦が陥落したとの報告が届き、近在の寺社からは祝いの酒の差し入れがあり、義元以下、その酒が回って、今川軍の本陣は緊張感がなくなっていた。
次に「地の利」では、今川軍が小休止していた場所は、田楽狭間と呼ばれる狭い場所だったから、少人数で攻めやすかった。合戦名は「桶狭間の戦い」だが、実際の合戦場は、田楽狭間で、桶狭間(尾張国知多郡)はそこから半里(2キロ)ばかり離れた村落のことである。
義元は、その田楽狭間で、砦から届けられた織田軍の首実検をし、
「天魔も鬼神も、この義元がたまらないと見えるわ」
と上機嫌でいって、やおら謡を口ずさむありさまで、完全にダレきっていた。
その様子は、密偵を通じて信長に筒抜けとなっていた。
最後の「人の和」については、結束を意味するが、油断と強気がはびこって結束が弱まっていた今川軍に対し、信長軍は兵力で劣り、しかも鷲津砦と丸根砦を落とされたと知った当初こそ不安と弱気が支配したが、信長が「我に秘策あり」と檄を飛ばして勇気を鼓舞し、褌を締め直させている。
「小軍だからといって大軍を恐れるな。運は天にあり。この言葉を知らないか。敵がかかってきたら引け。敵が退いたら、引き付けよ」
信長は、常識破りの大胆不敵な奇襲攻撃を敢行すると告げた。
偶然と必然は、両軍のコースが典型的だった。義元は、当初計画していた進軍コースを変更して「迂回するコース」に変えたことで、自軍には不利な田楽狭間で戦うことになったのだ。
■勝敗を分けた覚悟の違い
桶狭間の戦いの勝敗を左右したのは、戦国武将2人の“覚悟の違い”だった。前述したように、背水の陣の心境で臨んだ信長が勝利をもぎ取ったのに対し、義元は大軍を率いているという慢心と油断で命を落とす結末を生んだのである。
今川義元は、先遣隊を命じた元康が出発した2日後に本隊を率いて駿府城を進発して西上、上洛の途についた。今川・松平連合軍VS織田の合戦「桶狭間の戦い」には、元康が活躍した前哨戦があったのだ。
別動隊の元康が向かった先は、今川の配下に置かれた大高城だった。元康の任務は、城主から要請のあった「兵糧を城内に運び入れること」で、「大高城の兵糧入れ」と呼ばれているが、元康はその難しい任務に成功し、只者でなかったことを証明するのだ。
つまり、元康は桶狭間の戦いには加わっておらず、敵の織田方ではあるが伯父(詳しくは後述)からの急を知らせる手紙で、義元が桶狭間で討たれたことを知るのであり、その手紙には「早く逃げろ」とも記されていた。
桶狭間の戦いの詳細は、次のとおりである。
信長は、情報収集を怠らなかった。密偵に今川の様子を探らせ、「義元が桶狭間に陣を張っている」「守備はさほど厳しくはない」との2点を摑むと、軍議に臨み、家臣の梁田政綱が提案した「軍勢を先鋒と本隊の二手に分ける案」を採用、2000の兵を率いて中嶋砦に向かうと告げたのだ。
老臣たちは「それは危険すぎます」と猛反対したが、信長の決断は揺るがず、激しい檄を飛ばすのだった。
「あちらの武者たちは疲労困憊している。夜を徹して大高城への兵糧入れをし、鷲津砦や丸根砦で動き回ってから、こちらへやってきた者もいるのだ。その点、わが軍は体力を温存してきた武者ばかりである。そのことをよく考えろ。こちらは小軍ではあるが、大敵を恐れることはない。勝敗は時の運だ。こういう言葉もあるぞ。かからば引け、退かば引きつけるべし!」
天は信長に味方した。急に雨が降ってきた。それも豪雨だ。雨に煙って先が見通しづらくなった。まさに好機到来である。