※画像はイメージです/PIXTA

「会うたびに愛情が増していく。そしていまは死生を共にするしかないほどだ」……西南戦争において最期まで西郷隆盛の傍から離れなかった部下の増田栄太郎が残した言葉です。人望溢れる魅力的なリーダーの西郷でしたが、最期は「逆賊」の汚名を着せられ非業の死を遂げます。本記事では西郷の生きざまから、いま必要とされる「リーダー像」について考察していきます。

 

明治のヒーロー「西郷隆盛」の歩み

西郷隆盛は1828年、現在の鹿児島県にあたる薩摩藩に生まれました。当時、鎖国中だった江戸幕府は諸外国からの開国要求に揺れ、非常に難しい局面に置かれていました。そこで、新しい日本を作るために幕府を倒そう、外国との貿易にも目を向けようという気風が高まり、明治維新へと至るわけです。

 

西郷はその時代の中心人物です。明治維新の主役といわれる三傑は、薩摩の西郷に同郷の大久保利通、長州藩(山口県)の桂小五郎(木戸孝允)の3人でした。現代の日本の政治はその薩長両藩から始まったといっても過言ではないでしょう。

 

明治以降の首相輩出数は1位が東京、2位が山口で、鹿児島は4位です。これが、第2次世界大戦前だと1位が山口で3位が鹿児島でした。鹿児島が政治や学問で突出した人物を多く輩出した理由の1つに、当時の薩摩藩主である島津斉彬(しまづなりあきら)の存在があります。斉彬は非常に優秀で、先見の明のある政治家でした。一介の下級武士に過ぎない西郷でしたが、斉彬はその人柄にほれ込んで大層かわいがり、西郷をわざわざ御庭係にして側に置いたそうです。

 

西郷は斉彬の薫陶を強く受けました。そして、幕末の混沌とした時代のなか、西郷を中心に、磁石に引き寄せられるように多くの才人が集まり、歴史を変える大きなうねりになっていくのです。

 

混沌とした時代のなか、歴史を動かした「カリスマ」

1868年に始まった戊辰戦争を経て幕府は倒れ、明治政府が始動します。この戦争で功を上げたものは、多くの地位や名誉を手に入れました。西郷もその1人です。明治の政治家の給与は相当なものだったらしく、毎月レンガのような札束が西郷の家にも積まれていたそうです。

 

しかし、そんな西郷も明治維新後は不遇が続きました。明治政権が樹立すると、公家である岩倉具視を中心に西洋社会を学ぶため、歴史的にみても異例の使節団が1年10ヵ月もの海外視察に向かいます。不参加だった西郷は、そのあいだにアジア外交において征韓論を掲げましたが、西洋諸国を見て帰ってきた伊藤や大久保は、いまはそれどころではないとこれを退けます。

 

ここからの証言は諸説あり、まだまだ不明なところはありますが、知人である大久保によると「へそを曲げて」薩摩に下野してしまいます。野良仕事をして過ごすと帰った薩摩での生活でしたが、周りが西郷を放っておくはずがありません。

 

薩摩藩には、「郷中制度」と呼ばれる独特の教育制度がありました。若者の寄り合いで、村の人間は一定の年になるとそこに入り、学問や防災、遊びまでさまざまなことを学びます。トップは任期制ですが、若いころ、西郷は決まった任期を超えても周りから強く頼まれ、指導にあたっていたそうです。

 

郷里では若者の代弁者、カリスマ的な存在として尊敬の念を集めていました。戊辰戦争などの倒幕戦争で手柄を上げられずにくすぶっていた若者たちが、下野した西郷のもとに次々に集まってきました。きっと毎晩のように酒を酌み交わし、「一旗揚げて日本を変えてやるんですよ。西郷先生、一緒に戦いましょうよ」と吠える若者たちを、西郷は優しい目で見守っていたのでしょう。

 

次ページ的にも惜しまれる西郷隆盛…そのカリスマ性が歴史を変えた瞬間

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