※画像はイメージです/PIXTA

「会うたびに愛情が増していく。そしていまは死生を共にするしかないほどだ」……西南戦争において最期まで西郷隆盛の傍から離れなかった部下の増田栄太郎が残した言葉です。人望溢れる魅力的なリーダーの西郷でしたが、最期は「逆賊」の汚名を着せられ非業の死を遂げます。本記事では西郷の生きざまから、いま必要とされる「リーダー像」について考察していきます。

 

敵にも惜しまれて亡くなった西郷

しかし、血気盛んな若者たちの歯止めが、だんだん利かなくなってきました。当時の薩摩は独特な運営体制を保っていました。独立国家のような存在で、独自の政治を維持していたのです。

 

行政や警察、軍を動かしているのは私学校と呼ばれる組織で、前述の悶々とした士族の若者たちの集団であり、あるときそれが軍を使い、反体制のテロを起こしました。若者たちが政府に対して最初に暴動を起こした際、西郷はその一報を聞くや「しまった」とこぼしたそうです。

 

大久保も、西郷は若者に好きにさせるが最後は喝を入れて止めるだろうと考えていたそうですが、それがまさか自らも死を決意して熊本城開城のための戦闘に加わったのですから驚いたことでしょう。これが西南戦争です。

 

そのとき、大久保は西郷を止めるために鹿児島に向かおうとしますが、伊藤博文に諭されて東京に残りました。伊藤は、大久保が身を挺して西郷を止め、2人で自害するのではないかと心配したといわれています。結果的に西郷の振った旗の下で多くの人間が命を落とし、熊本の町は焼け野原となりました。

 

西郷の元部下で、この戦いでは政府軍として戦った川路利良は、西郷の屋敷が燃えているのを双眼鏡で覗きながら「西郷どんの屋敷が燃える。愉快だ愉快だ」と言いつつも大粒の涙を流したと伝えられています。敵となった人間に、最後まで惜しまれつつ歴史の露と消えた西郷隆盛がいかに偉大な人物であったがわかる話です。

“大きく打てば大きく響く”…周囲から見た西郷の人柄

坂本龍馬は、西郷のことを「大きく打てば大きく響く。小さく打てば小さく響く釣鐘」と巧みに表現しています。しかも相手が誰でも大きく打てば大きく響くのです。

 

西郷は、島流しにされたときに離島で出会った少年を、その熱意に応えて京都へ連れていったこともありました。また、幕府から命を狙われた同朋の僧月照が、このまま捕らえるくらいなら自害すると逃亡中の船上で西郷に告げると、西郷が躊躇なく一緒に海に飛び込んだ話は有名です。

 

威圧感のある外見と裏腹に、普段は偉ぶらず、にこにこしていて明るい人物だったと伝えられています。英国外交官アーネスト・サトウからは、ファーストインプレッションは「いい感じの人物だが、どんくさそうで少々持て余す」と評されています。しかし、いざというときの西郷は違います。サトウから、イギリス海軍の支援を提示されたとき、西郷は毅然として断ったと伝えられています。

 

その対応は、独立国家としての日本の未来を決定づけました。外交というものの考え方がほとんどなかった当時の日本においては、極めて優れた対応でした。そこからサトウは「日本人のなかでもっとも特筆する人物がいるとすれば西郷隆盛」だと言うようになるわけです。

 

ユーモアもあり、相手がどんな身分の人間でも真剣に向き合う、そしてあの巨漢が安心感にもなったのでしょう。上野公園の西郷隆盛像には威厳よりも優しさと親しみやすさがにじみ出ています。そこに人は惚れて付いていきます。

 

そんな西郷のカリスマ性が歴史を変えた瞬間は、まさに明治維新の倒幕のシーンです。戊辰戦争で江戸城を戦火から守り、抗戦する幕府軍を徹底的に叩き潰しました。その後、前述の征韓論、南北戦争の件になっていくのですが、倒幕を果たしたあとに西郷はこう語ったそうです。

 

「自分は壊すのは得意だが、つくるのは苦手だ」

 

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