“大器の片鱗”を感じさせる元康の才能
一方、秀吉は、尾張の国(愛知県西部)の愛智郡中村という村の農民木下弥右衛門の倅だったが、「戦国乱世の時代を逆手に取って、武士になって立身出世を遂げよう」との野心に燃え、しかも仕事ぶりがまじめで、頭もよく、といっても秀才のような賢さではなく、頓智が働き、機転がよく利く頭のよさで、おまけに剽軽で憎めないネアカな人柄ときたから、信長に気に入られて織田家に仕官する道を見つけた。
そういう出自だったから、武士のような元服式もなく、織田家に仕官できたのは22歳と遅く、24歳での初陣となった次第である。
■大器の片鱗
14歳で元服して「松平元信」と名乗った家康は、2年後には今川義元の姪(瀬名姫、のち築山殿)と結婚し、名を「元康」と改め、前述したように3年後には17歳で初陣を飾ることになるが、その仔細は次のようだった。
「寺部城の城主鈴木重辰が、織田方に寝返った」との報を受けた今川義元は、ただちに城の奪還に立ち上がり、その役目を人質の松平元康に命じた。西暦では1558年のその年、改元が行われ、弘治4年が永禄元年となった2月初旬のことである。
元康は、義元の許可を得て岡崎城(愛知県岡崎市)に里帰りすると、諸将を一堂に集め、「2月5日を期して寺部城(愛知県豊田市)へ討って出る。わが初陣ぞ」と宣言した。
その日が来るのを一日千秋の思いで待ち焦がれていた老臣たちは、逞しい姿に成長した若殿を見て、一斉に大歓声を上げ、感涙にむせび、闘志をたぎらせたが、寺部城の攻略は赤子の手をひねるようにはいかない。寺部城主の鈴木重辰は、広瀬城主の三宅高清と手を結んでいるし、挙母城(豊田市)、梅坪城(同)、伊保城(同)といった諸城とも敵対している。そのあたりのことは、松平家の家臣たちもよくわかっていた。
今川義元は、当初、家臣を前に「誰か、寺部城を攻略する者はおらぬか」といった。百戦錬磨の強者が何人もいたが、言を左右して誰も名乗りを上げなかった。その理由は、はっきりしていた。寺部城攻めは、誰もが二の足を踏む〝危険と背中合わせの任務〟だったからだ。
家臣たちが引き受けようとしない命がけの厄介な任務を、なぜ義元が合戦経験が皆無の17歳の少年に命じたのかといえば、「元信が人質だったから」。このことにつきる。
戦国時代の人質の半数は殺されている。神坂次郎『徳川家康』(成美堂出版)によれば、戦国期の人質50件は、以下のようだった。
生きて返されたもの 22件
奪回したもの 3件
自力で脱走に成功したもの 2件
虐殺されたもの 23件
元康は、そういう情報を早くから知っていたのかもしれない。幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切らない。今川義元は、元康のこうした性格を知り尽くしていたのである。
だが、その一方で義元は、“大器の片鱗”を感じさせる元康の才能に早くから着目して目をかけ、義元が軍師としてあがめていた叔父で臨済宗の僧雪斎から兵法などを学ばせていた。
表面的にはそういうことだが、一筋縄ではいかない義元のこと、“したたかな計算”が働いていたと考えるべきだろう。嫡子の氏真は親の目から見ても“暗愚”としか思えず、行く末を案じて元康を補佐役候補として思い描いていた節もある。
城島 明彦
作家
↓コチラも読まれています
ハーバード大学が運用で大成功!「オルタナティブ投資」は何が凄いのか
富裕層向け「J-ARC」新築RC造マンションが高い資産価値を維持する理由