「国民審査」でクビになる裁判官はいない
■裁判官は現場の人間を見つめているか
衆議院選挙の際に実施される「国民審査」の用紙に、「×印」をつけたことがありますか。
国民審査とは、最高裁判所の裁判官の罷免ができる制度で、「×印」が有効票数の過半数となった場合、その裁判官は罷免されます。つまりクビです。なかなか過半数には届かないので、そう簡単にやめさせられる仕組みではありません。
一部の新聞は国民審査の判断の材料提供のために、投票日前に、どの裁判官が、どの裁判で、どんな判決を出してきたかを記事にしています。これはメディアの大事な責務だと思います。
そもそも、毎日のようにニュースになっている裁判では、裁判官や裁判長の名前はしっかり報道すべきであり、読者や視聴者はその名前をしっかり記憶しておくべきです。
なぜか。裁判官の力は絶大で、その判断は社会に大きな影響を及ぼすからです。閣僚や国会議員、中央官庁の幹部、自治体の首長などが持つパワーと簡単には比較できませんが、結果として、社会に大きな影響力を行使しています。
裁判官は、判決を出す人の人生を直接左右するほか、社会の仕組みなどをあらゆる場面で方向づけます。しかし、裁判官は判決ごとに詳しく記者会見などしないので、判断の過程や理由、本音が分かりにくいうえに、目立ちません。
裁判官の顔や思考が見えず、ある意味、不透明だと私は感じています。それゆえ、国民は、その判決を出した裁判官の名前と判決内容をしっかりチェック、監視しておく必要があるのです。
裁判員裁判の導入で、裁判官の意識も変わったと思います。裁判官のみなさんにお願いしたいのは、過去の判例を鵜呑みにせず、デスクワークに終始せず、現場に出て、様々な経験をして、泣いて、笑って、怒って、人間と社会を、自分の心で見つめていただきたいということです。つまり、自考してほしいのです。
2014年3月、埼玉県川口市で起きた17歳の少年による祖父母殺害事件。借金があった母親が少年に「殺してでも借りてこい」と指示したといいます。不幸な幼少期だったことなども踏まえ、検察は死刑ではなく、無期懲役を求刑。その年の12月、さいたま地裁(栗原正史裁判長)は懲役15年の判決を言い渡しました。
産経新聞によれば、判決後、栗原裁判長は少年に次のように説諭したそうです。
「お母さんにも原因はあるかもしれないが、君の責任はなくならない。ひと2人が亡くなったことの意味を一生考えてほしい」
「君が刑期を終えて社会に戻ってくるのを、君を思ってくれている人たちと一緒に、私たちも待っていようと思います」
裁判長自らも待っている、と呼びかけた栗原さんの言葉は話題になりました。
また、栗原裁判長は、被害者遺族として検察側の証人に立った少年の母の姉に対して、「決してあなたを非難しているわけではないが、周囲にこれだけ大人がそろっていて、誰か少年を助けられなかったのか」と問いかけたそうです。
法廷で裁判官が、自らの思い、感情をどこまで投げかけていいのか、賛否があるかもしれません。でも、栗原さんは、少年のことを自分の頭と自分の心で自考し、判決を本気で出そうとしたのではないでしょうか。少年を殺人犯に追いやった背景に、「社会」の責任もあるとすれば、栗原さんはその「社会」の中に自らをも含めて考えたのかもしれません。
さいたま地裁で裁判員裁判を担当していた栗原さんは、ある裁判員の言葉に影響を受けました。朝日新聞によれば、ある事件の協議中、栗原さんは裁判員から次のように指摘されました。
「裁判官って、被告を呼び捨てにするんですね。普通、社会でそんなことってないですよね」
それまで栗原さんの目には「被告は裁かれる対象にすぎない異分子」と映っていたそうです。しかし、その裁判員は、被告を同じ社会にいる構成員、いわば“仲間”と捉えていました。
栗原さんは、それから、被告に「さん」を付けて呼び、丁寧語で語りかけるようになったそうです。やり方を変えたのです。上から見下されるのではなく、「さん」付けで呼ばれ、丁寧な言葉で語りかけられた被告は、何を感じるのでしょうか。
同じ目線に立とうとする裁判官の言葉は、被告の心に響くのかもしれません。
岡田 豊
ジャーナリスト
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