「悪い候補者」に1票を投じる、ロシア人の選挙観
私の政治感覚は、標準的な日本人と比較すると、少しずれているような気がする。選挙とは、われわれの代表者を政治の場に送り出すことだと頭ではわかっているのだが、どうも皮膚感覚がついていかない。
ロシアでは、われわれの日常生活とは次元の異なるところから、選挙の候補者が降ってくる。「悪い候補者」と「うんと悪い候補者」と「とんでもない候補者」だ。その中から「悪い候補者」に1票を投じ、「うんと悪い候補者」と「とんでもない候補者」を排除するのが選挙であるというのが、私の率直な認識だ。これはロシア人がもつ標準的な選挙観でもある。
私は1987年8月から95年3月まで、モスクワの日本大使館で外交官として勤務した(正確に言うと、88年5月まではモスクワ国立大学で研修を受けた)。
その間に91年12月のソ連崩壊があった。まず、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が進めたペレストロイカ(立て直し政策)に対する期待感と幻滅を目の当たりにした。中途半端な経済自由化によって、指令型計画経済のネットワークが崩れ、石鹼や砂糖さえ満足に手に入らなくなった。
また、アゼルバイジャンとアルメニアの民族紛争、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)のソ連からの分離独立運動の現場を見た。ナショナリズムの力が、創造性、破壊性の両面において、桁違いに大きいことを実感した。
ソ連崩壊後のロシアでは、もはや民衆が秘密警察を恐れることはなくなった。自由に政治活動、経済活動ができるユーフォリア(陶酔感)を、私も一時期ロシア人と共有した。しかしその陶酔感は、ソ連崩壊から1年も続かなかった。「ショック療法」と呼ばれる新自由主義的な経済改革が行われ、92年のインフレ率は2500%に達した。
ソ連時代の国有財産のぶんどり合戦が始まった。経済抗争がある閾値を超えると、カラシニコフ自動小銃で処理されることを知った。私が親しくしていた銀行の会長とスポーツ観光国家委員会の次官が、カラシニコフで蜂の巣にされて生涯を終えた。
利権抗争ではないが、北方領土関係でクレムリンと議会に対してロビー活動を行っていたら「モスクワ川に浮くぞ」と警告されたことが複数回ある。秘密警察関係者からの政治がらみの警告だったこともあったが、北方四島周辺の密漁によって外貨を稼いでいるマフィア関係者と手を握った官僚からの警告だったこともある。後者のほうが恐かった。
日本に戻ってきたのは95年4月だ。その後もロシア各地に頻繁に出張した。特に97年11月に西シベリアのクラスノヤルスクで橋本龍太郎総理とエリツィン大統領が会談し、北方領土交渉が動き始めてからは、3〜4週間に1回はモスクワに出張した。
2001年4月に小泉純一郎政権が成立し、田中眞紀子氏が外相に就任するまで、そのような状態が続いた。それだから、当時のロシアの雰囲気は今でも私の脳裏に焼きついている。
佐藤 優
作家・元外務省主任分析官・同志社大学神学部客員教授
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