その時、大きな声が響き渡った
■「赤ん坊は泣くのが仕事だ」かっこいい大人
45年以上も前のあの光景は忘れられません。小学生の私は、母親と、母親の兄つまり伯父と、3人で電車に乗っていました。
「静かにしやがれ~! この野郎~!」
車両内の空気が一瞬にして凍り付きました。私の顔は青ざめ、身体が固まります。
目の前に座っていた強面の男性が通路を挟んだ座席にいた女性に罵声を浴びせていました。
男性は、角刈りで、怖い形相、目は獣のようです。その若い女性は、大声で泣き続ける赤ちゃんを抱きかかえ、懸命にあやしていました。「早く泣きやんでほしい」という思いでいっぱいだったでしょう。男性には、その赤ちゃんの泣き声が苦痛だったのです。
その男性は母親を一方的に責め立てました。この母親と赤ちゃんは、どうなってしまうのだろう。男性が襲いかかったら、どうなってしまうのだろう。私は気が気ではありませんでした。
その時でした。
「赤ん坊はなぁ~! 泣くのが仕事だからなぁ~! しょうがないんだよなぁ~!」
どこからか、大きな声が響き渡ります。一瞬、耳を疑いましたが、その声は隣に座っていた私の伯父の声でした。
「えっ、なんで。まずい」
伯父の顔は、平静を装っていましたが、青ざめています。伯父のこんな顔を見るのは初めてです。覚悟を決めた形相に見えました。
赤ちゃんの泣き声はさらに大きくなっていきます。伯父は、さっきより大きな声を張り上げました。
「赤ん坊はなぁ~! 泣くのが仕事だからなぁ~! しょうがないんだよなぁ~!」
その場の緊張は頂点に達しました。
1分くらいたったでしょうか。角刈りの男性は、自分の席から立ち上がり、別の席に移っていきました。私たちが電車を降りるころ、車両内には平静が戻っていました。赤ちゃんも泣きやんでいました。伯父の言葉のおかげで、その緊迫の出来事は事なきを得ました。
伯父に感謝の気持ちでいっぱいでした。しかし、伯父がいかにすごいことをやってのけたのか、その時の私にはよく理解できていませんでした。
大学生となり、東京に出た私は、電車の中のトラブルをよくニュースで見ました。座席のスペースを占有し、わが物顔でふんぞり返った人を注意した学生や会社員が逆切れされ、殴られたりといった事件が頻繁に起きていました。マナーの悪い客に関わらない方がいいという気分にさせられます。
そんな時、かつての伯父の振る舞いを思い出すのです。窮地に追い込まれた母子を救った伯父の勇気。もしも、相手が殴りかかってきたら、大けがをしていたかもしれません。刃物を持っていたら、命の危険もあります。