1960年代の名古屋。自身のキャリアに悩んでいたある青年は、高校時代の友人の声がけにより、賃貸業をメインとする不動産会社へ。優秀な先輩に触発され、一心不乱に仕事にまい進していたところ、社長と常務に呼び出され、「うちの社でも賃貸住宅情報誌を創刊する。責任者として雑誌作りを担当してほしい」とのまさかの指令が下されることに…!

「大きな損失を出すだけ。思い留まったほうが…」

私は営業で鍛えたスピードとフットワークの軽さを活かして、すぐに東販と日販に電話でアポイントメントを取り付け、先方の会社を訪問しました。訪問の意図は伝えてあったので、すぐに雑誌課に通してくれましたが「自社で賃貸住宅情報誌を出版したいと思っています。創刊は7月の予定です」と私が話すと、担当者は異口同音に「やめたほうがよい」と渋い顔をしました。

 

そして諭すような口調で「過去にいろいろな会社から同じような出版の話があったが、どれも3号目まで続かなかった。創刊しても大きな損失を出すだけだから、痛手を負う前に思い留まるのが身のためです」と言うのです。創刊しても3号ほどしか続かない雑誌のことを、業界では揶揄を込めて「3号雑誌」と呼んでいるそうです。

 

私は雑誌出版の厳しさを知ると同時に「だからといって諦めるわけにはいかない」と気合を入れ直しました。そして、取次がダメなら先に売り場を確保しようと考え、名鉄(名古屋鉄道)と国鉄と地下鉄の各販売会社に行って仕入れ担当者に交渉したのです。

 

ところがこちらは東販や日販よりもさらに手ごわく、私の話を全部聞く前に内容を察知して、途中で「無理です」と断られてしまいました。その理由は「駅売店は売り場面積が小さいうえに飲み物や軽食類、雑貨など扱う商品が多く今でさえ所狭しと品物が並んでいる。これ以上追加するのは難しい」というものです。

 

確かに「売れるかどうかも分からない雑誌に割くスペースがあるなら、別のものを並べたい」と思うのは無理もありません。しかし、私は「東京では賃貸住宅情報誌を駅売店で売っている」という事実を知っていたので、なんとか説得できないか時間をかけて攻略しようと考えました。

 

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賃貸仲介・管理業一筋50年 必勝の経営道

賃貸仲介・管理業一筋50年 必勝の経営道

加治佐 健二

幻冬舎メディアコンサルティング

メーカーから転職して1976年に28歳で営業職として入社し、充実した日々を送っていた筆者。 その矢先、突然社長と常務から呼び出され「東海エリア初の賃貸住宅情報誌の創刊」を命じられたのです。 そして右も左も分からな…

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