1960年代の名古屋。まだ開発途上の街だったこの場所で、醸造機器メーカーに就職したある青年がいました。技術者として地道にキャリアを積んでいきましたが、時代や周囲の状況から、次第に限界を感じるようになりました。そんな折、賃貸業をメインとする不動産会社を起業した高校時代の友人から声がかかり、心機一転、飛び込んだのですが――。

「今日からやる仕事は、名古屋で必要とされる仕事」

不動産営業マンとして初出勤の日、私は胸を張って出社しました。

 

「今日から私がやろうとしている仕事は名古屋で必要とされる仕事である。住まいを探すお客さまにも貸す側のオーナーさまにも支持される仕事である」という自負があったからです。

 

配属先は本社から10キロほど東に位置する池下支店です。友人の読みどおり名古屋の賃貸仲介のニーズは高く、私が入社した時点ですでに本社以外に中村支店と池下支店の2つの営業所を構えていました。

 

とはいえものづくりの仕事とは180度違う営業の仕事に、私自身はカルチャーショックを受けました。部品加工や修理の仕事は基本的にものに向き合ってする仕事です。精密に部品を削りだしたり、100分の1ミリ単位で調整したりといった作業を黙々と行います。また自分から仕事を探すというよりは、会社から与えられた仕事をこなすことが中心になります。

 

それに対して不動産の営業の仕事はまず相手が人間であるので、コミュニケーションのスキルが求められます。また営業マン同士はライバルです。新聞広告やチラシなどを見た顧客からかかってくる問い合わせの電話にいかに早く出るか、顧客の要望をいかに段取りよくヒアリングして最適な物件を紹介するか、物件案内の予約を何件取れるか、そのなかから何件を契約成立にもっていけるか、それを同僚たちと日々競争するのです。

 

入居契約を取るための営業活動以外にもやるべき仕事はたくさんあります。物件オーナーやハウスメーカーに営業をかけて取引を開始し仲介物件を仕入れることや、入居者の苦情や相談(上の階の住人の生活音がうるさい、設備が壊れたなど)に対処することも当時は営業の仕事でした。先輩たちの営業スキルに新米の私がついていけるはずもなく、最初の頃は「営業のプロの仕事ってすごいな」と感心していました。

 

しかし感心してばかりはいられません。私も先輩のやり方を見て学び、電話のベルが鳴ったら誰よりも早く受話器を取ることや顧客の要望をよく聞くことを心掛けました。

 

ただそこまでは新人でもなんとかなるのですが、肝心の物件紹介や物件案内がスムーズにいきません。ベテランの営業マンになると頭のなかに担当エリアの詳細地図や取扱物件が全部インプットされているので「あの駅周辺でこの家賃なら○○アパートがいいだろう。あそこは来月1室空くのでちょうどいい」というように即座にアウトプットができます。しかし新人は土地勘や物件ごとの情報に弱いため、地図や物件台帳を開いて確認しなければなりません。

 

私が1件目の対応をしている間にベテラン社員は2件目3件目とどんどん仕事を進めていき、まったく太刀打ちできませんでした。

 

負けず嫌いの私は先輩に追いつくため、休日に担当エリアをひたすらマイカーで走って道を覚え、どこにどんな物件があるか、空室状況はどうか、周辺にどんな店や施設があるかなどを頭に叩き込みました。地図を見てイメージするより実際に現地に足を運んで確認するほうが、はるかに記憶の定着率が良いことが分かったのです。

 

そのうち私も契約を取れることが増えてきて、仕事が面白くなっていきました。契約してくれた顧客から「ありがとう」と言ってもらえるのがうれしく、努力すればできるという自信をもちました。

春は賃貸仲介業の繁忙期…仕事量は普段の倍に

入社して初めて迎える春は、忙しさに圧倒されました。賃貸仲介業は春が1年で最も忙しくなります。進学や就職、転勤などで引っ越す人が増えるからです。

 

正月休みが終わると問い合わせが急増し、2月、3月はほかの月の倍以上の仲介件数になります。当時、名古屋で賃貸仲介業を専門にしている業者は個人事業の不動産屋を除くと私のところだけでしたので、問い合わせが殺到するのです。

 

物件数の豊富さは売りの1つでしたが、朝から夕方まで休む間もなく物件案内が入り、契約がどんどん決まっていくため紹介する物件も底をついてきます。こうした時期は日中の業務が終わった夜にオーナー宅に寄って契約や入居の手続きなどを済ませたり、仲介物件の仕入れを増やすための営業に遅くまで回ったりなどしました。残業時間が長くなりますが、インセンティブや給料に反映されることであり、やりがいを感じたものです。

 

なによりも力になったのは、契約が取れたことを知らせるとオーナーが喜んでくれることです。その笑顔を見ると、私もエネルギーが湧いてきました。

「責任者として、雑誌作りを担当してほしい」

初めての繁忙期もようやく山場を越え「この調子で新年度も突っ走ろう」と思っていた1977年の3月中旬、本社から突然の呼び出しがありました。行ってみると社長と常務が待っていて、2冊の雑誌を渡されました。

 

1冊は大阪で1975年に創刊された「賃貸住宅ニュース」、もう1冊は東京で創刊された「APAMAN」という賃貸住宅情報誌でした。そして、「うちの社でも賃貸住宅情報誌を創刊するので編集企画課を新設する。その責任者として雑誌作りを担当してほしい」と言われました。

 

寝耳に水の話で「なぜ私が雑誌作りを?」と面食らいましたが、上層部の説明を聞いていくと、確かに賃貸住宅情報誌は経営戦略として有効であり、面白そうな試みだということがだんだん分かってきて、興味を惹かれました。その頃、私たちの会社では中日新聞の市内版に新聞広告を出していましたが、ライバル社が急に増え出したことで反響が落ちていました。

 

それまではライバル社のいないブルーオーシャンだったのが、不動産売買をやっていた他社が私たちの成長率を知って参入してきたためレッドオーシャンになってしまったのです。東京オリンピック特需が終わって、不動産売買の市場が下火になったことが賃貸仲介業への参入を促進した大きな要因です。新聞の広告欄は10件ずつ枠を買い取る仕組みになっており、毎日何十件と広告を掲載するとかなりの金額になります。費用対効果は右肩下がりで悪化しており、これから先ももち直す見込みは薄い状況でした。

 

そこで上層部が広告戦略を立て直し、ライバル社がやっていない賃貸住宅情報誌を出すことで差をつけ、新たな市場を開拓しようということになったのでした。「制作はすべて任せるので7月には創刊してほしい」との話でした。

 

私は支店での営業が楽しくなってきていて、この2月度、3月度も好成績が出ていたところでしたが、社命とあっては断る選択肢はありません。転職して1年足らずで賃貸住宅情報誌を発行することが決まり、私はまったくのゼロベースから、しかも一人で情報誌制作を始めることになってしまいました。「大変なミッションをもらってしまった」と少しは思いましたが、営業も努力すればできるようになったので、雑誌作りも「やればできるに違いない」と前向きに考えました。切り替えが早く、目の前のことに一生懸命になれるのは私の長所かもしれません。

 

 

加治佐 健二
株式会社ニッショー 代表取締役社長

 

賃貸仲介・管理業一筋50年 必勝の経営道

賃貸仲介・管理業一筋50年 必勝の経営道

加治佐 健二

幻冬舎メディアコンサルティング

メーカーから転職して1976年に28歳で営業職として入社し、充実した日々を送っていた筆者。 その矢先、突然社長と常務から呼び出され「東海エリア初の賃貸住宅情報誌の創刊」を命じられたのです。 そして右も左も分からな…

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