角栄はブレジネフに「ダー」と言わせた
■老獪なブレジネフに領土問題の存在を認めさせた
さて、そのソ連とのトップ会談は、モスクワのクレムリン宮殿のエカテリーナの間で設定された。外交辞令のやり取りが終わると、ブレジネフはのらりくらりだった。角栄の訪ソの真の狙いが領土問題にあることを見抜いていたブレジネフは、ソ連のどこにどんな資源があるのか、それぞれがどれくらい有望であるのかについて、滔々と角栄に説明した。
「まったくの時間稼ぎだった」と小長は証言する。
資源開発で日本の資金を引き出したい。しかし、北方領土の話には入りたくない―。
そんなソ連側の思惑を角栄も十分読んでいた。そして慌てなかった。ただうなずき、ブレジネフの話が終わるのを辛抱強く待った。
30分ほど話は続き、ブレジネフの言葉が途切れた隙を突いて、角栄は「無資源国の日本の首相として、ソ連のどこに何があるのかは承知している。今日のご説明で改めてそれを確認させていただいた」と軽くかわした上で、こう切り返した。
「我々は豊富なソ連の資源を日本に持っていくための経済協力に積極的に対応していきたい。ただ、そのためには首脳同士で解決しなければならないことがひとつ残っている」
ブレジネフが一瞬たじろぐのを見逃さず、角栄は「資源よりも北方領土の返還が首脳会談で先に議論すべきテーマだ」と続けた。
その後、角栄は気迫で押した。ソ連側は「領土問題は解決済み」の一点張りだったが、角栄も譲らなかった。一時は共同声明を出すことすら危ぶまれるところまで険悪なムードとなったが、一歩も引かず、「第二次世界大戦のときから残った未解決の諸問題が存在すること」、そして「この未解決の諸問題に北方領土問題が含まれる」ことについて、ブレジネフに「ダー(そうだ)」と言わせたのだった。
このとき、角栄が引き出した「ダー」という言葉の意味は極めて大きい。そして、それは現在につながる「ダー」だった。
仮に角栄がブレジネフのテンポに巻き込まれていれば、「日ソ間に領土問題は存在せず」を肯定することになっていたかもしれない。それは日本国の首相として決して許されることではなかった。そこを角栄は持ち前の腕力と胆力で引き戻したのだった。
おかげで60年安保で大きく後退した北方領土問題は、1956年の日ソ共同宣言、つまり「歯舞、色丹の2島返還までは認める」というラインまで引き戻すことができたのである。
田原 総一朗
ジャーナリスト
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