「令和の田中角栄」が求められる理由
■鮮明に覚えている田中角栄との最初の出会い
最初の出会いのときのことは、強烈に印象に残っています。私は約束の時間の30分前に、目白の田中邸に入りました。ところが約束の時間を30分過ぎても角栄がやってこない。秘書の早坂に聞いたら、「実は昨日、オヤジ(角栄)から君の資料を一貫目(約4キロ)集めてこいと言われて、朝からそれを読んでいる。まだ終わってない」と。
普通、資料を読むのはインタビュアーの私のほうです。でも、角栄は逆にインタビュアーのことを徹底的に知ろうとしていた。これはおもしろい政治家だなと、改めて感じました。
結局、インタビューは1時間遅れで始まりました。しかし、終わった後、また難題が降りかかりました。角栄が金庫から茶封筒を出して私に渡すのです。
おそらく厚みから100万円はあったと思います。これを受け取ったら、ジャーナリストとしてはおしまいです。しかし、断って角栄の面子をつぶしたら、今後自民党の取材ができなくなる。非常に悩みました。
結局、いったん受け取って、その足で平河町の田中事務所に行き、「申し訳ありませんが、お返ししたい」と告げると、早坂から「そんなことをしたら、オヤジが怒って政治の取材は一切できなくなるぞ」と言われた。それでも30分以上頭を下げ続けて返したら、2日後に早坂から「田原君、オヤジがOKしたよ」と電話があって、首の皮一枚つながった。OKが出ていなければ、私のジャーナリスト生命は絶たれていたはずです。
それ以降、角栄とは本音のつきあいをさせてもらいました。角栄は娘の眞紀子さんをかわいがっていて、「眞紀子は早稲田を出ていて賢いのに、ときどき本を持ってきて、『お父さん、この字はどう読むの?』と聞いてくる。親孝行だ」と自慢していました。
1985年2月に角栄は脳梗塞で倒れて、以降は政治への影響力を徐々に失っていきました。そして、1990年1月に政界を引退、1993年12月にこの世を去ったのです。
■今こそ「令和の田中角栄」が求められる
平成の「失われた30年」が終わりをつげ、時代は令和に変わりました。田中角栄が『日本列島改造論』を発表し、54歳で首相の座に就いた1972年から、今年は50年という節目の年にあたりますが、日本にとって極めて残念なのは、角栄以後、あれほどの構想力を示す政治家が出ていないという現実です。
コロナ禍で行われた初の本格的国政選挙である2021年11月の衆議院選挙では、与野党各党ともバラマキ政策に終始し、平成の30年間に下降曲線をたどるだけだった日本を蘇らせるための具体的な成長戦略に関する議論はありませんでした。
つまり、与野党ともに、「これからどんな日本にしていくのか」という構想力を描ききれていないのです。
もし、現在の日本に角栄がいたら、新たな構想を国民にわかりやすく打ち出していたでしょう。近年、田中角栄ブームが起きて、関連書籍がたくさん出ているのも、今の政治家たちが小さくまとまり過ぎて、「構想力」というものがなくなってしまっていることに対する、人々の角栄待望論だと思います。
もちろん50年前と現在とでは、日本を取り巻く時代環境は大きく異なります。一番違うのは、50年前は人口が増え続けていた時代であり、現在は人口が減り続けている時代だということです。
しかし、閉塞感と不透明感にあふれる現代において、田中角栄が首相在任中に取り組んださまざまな試みを振り返ってそこからヒントを求めることは、必ずや何らかの参考になると思います。
今こそ「令和の田中角栄」が求められるのではないでしょうか。
田原 総一朗
ジャーナリスト
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