田中角栄が終生大事にしていたのは、少年時代に故郷の小学校の草間道之輔校長から教えられた「人間の脳とは、数多いモーターの集まりである」という言葉です。今でいえばコンピューターです。ジャーナリストの田原総一朗氏が著書『田中角栄がいま、首相だったら』(プレジデント社)で解説します。

政治家・田中角栄はなぜ生まれたのか

■敗戦がなければ「政治家・田中角栄」は生まれなかった

 

田中角栄は「日本の敗戦」という大混乱がなければ、恐らく政治家にはならなかった人物である。

 

1918年(大正5)5月4日、角栄は新潟県刈羽郡二田村(現在の柏崎市)に生まれた。父親は角栄の表現によれば、「馬喰(牛馬の仲買人)」であった。父親は競馬にのめり込んで大金を失ってしまうことも多く、生活は楽でなかったという。

 

角栄は高等小学校を卒業後に上京し、奉公のような勤めを重ねて、19歳という若さで東京の飯田橋に建築事務所を起業した。おそらく、将来はゼネコンに成長させようと考えていたのであろう。

 

角栄は日本が敗戦した1945年の11月に、当時会社の顧問であった政治家・大麻唯男から頼まれて300万円の政治資金を出した。現在の価値に換算すると18億円という大金である。

 

大麻は、戦前に軍部の政治介入を批判していた民政党の幹事長を務めた後、東條英機内閣の国務大臣の椅子を得て「寝業師」との異名をとった人物だが、戦後は鳩山一郎を中心に結成された自由党に対抗して、日本進歩党を作っていた。

 

ところが、1946年1月4日に、大麻は鳩山らとともに公職追放となり、同年4月に行われる戦後初の衆議院選挙に出馬するよう、角栄に強く勧めた。頭が切れてエネルギッシュであると同時に、資金も豊富とみられたからである。一度は断った角栄だが、結局出馬することになる。後の角栄の言によれば、「馬喰心に駆られた」ということのようだ。

 

■インタビュアーの研究をする

 

1980年12月、私は雑誌『文藝春秋』の依頼で、角栄にインタビューをすることになった。角栄はその6年前にジャーナリストの立花隆が同じ『文藝春秋』に書いた金権問題究明レポートによって失脚してから、メディアにはまったく顔を出していなかった。それでも依然として政界では強い影響力を持ち続けており、「闇将軍」と呼ばれていた。

 

私は豊島区の目白にある、当時「目白御殿」と呼ばれた角栄の自宅兼事務所に向かった。

 

「御殿」と呼ばれるとおり、閑静な住宅地の中でも際立って大きく、どっしりとした門扉の左わきに警官の詰め所があった。当時の敷地は延べ2500坪もあり、現在ではその一部が相続税として物納され、「目白台運動公園」という都民の憩いの場となっている。

 

元気なころの角栄は、門を入ってすぐの事務所にある20畳ほどの応接室で、メディアの取材や陳情者との面会をこなしていた。

 

インタビューの約束は午後1時からだったが、30分経っても、1時間経っても、角栄は姿を現さなかった。しびれを切らして当時の秘書である早坂茂三に聞いてみると、「実は」と早坂が話し始めた。

 

「昨日、角さんから『田原についての資料を一貫目集めてくれ』と言われましてね」

 

一貫目とは、昔の重さの単位で、現在の単位で言えば、約4キログラムになる。秘書が本当にそれだけの資料を集めたかどうかは知らないが、角栄はそれを今朝からずっと読んでいるというのだ。

 

インタビューする側が相手の資料を取材前に読み込むのは当然だが、インタビューされる側がインタビュアーのことをそれだけ調べるという話は聞いたことがない。後から聞けば、角栄はこの取材にものすごく緊張して臨んでいたらしい。

 

その真剣さ、用意周到さ、一見して豪放磊落のように見えて、実は繊細な神経の持ち主。私は改めて、田中角栄という人物に興味を惹かれた。

 

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本連載は田原総一朗氏、前野雅弥氏の著書『田中角栄がいま、首相だったら』(プレジデント社)より一部を抜粋し、再編集したものです。

田中角栄がいま、首相だったら

田中角栄がいま、首相だったら

田原 総一朗 前野 雅弥

プレジデント社

2022年は、田中角栄内閣が発足してからちょうど50年にあたる。田中角栄といえば、「ロッキード事件」「闇将軍」といった金権政治家のイメージが強いが、その一方、議員立法で33もの法案を成立させたり、「日本列島改造論」に代…

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