田中角栄政権を潰した石油ショック
■大ベストセラーとなった「日本列島改造論」
さて、類いまれなる構想力と法律知識を背景に、「都市政策大綱」をつくった角栄は、それを下敷きに『日本列島改造論』を1972年6月に発表し、翌月には内閣総理大臣に就任したため、同書は91万部という大ベストセラーになりました。
『日本列島改造論』が「都市政策大綱」と違ったのは、「公共のために個人の権利を制限する」と言わなくなり、開発の具体的な地名を挙げたことです。秘書の早坂茂三らが反対したら、「これは医者の処方箋だ。処方箋は患者を喜ばせないといけない。列島改造論も国民を喜ばせるものだ」と答えたそうです。
しかし、開発する地名を出したことで地価が高騰し、凄まじいインフレになった。国民の間で疑問が起きはじめたところに、1973年秋に第四次中東戦争が起きて石油ショックが巻き起こります。石油の価格が5倍に上がって悪性インフレになり、角栄の政治は金権政治だとの世論が湧き起こりました。
それまでは角栄のやり方を悪く言う人はいませんでした。当時の角栄のライバルは東大卒で大蔵省出身のエリート福田赳夫です。福田を囲む会は当時政財界に34もありました。それに対して、角栄は「俺には新潟県人会と二田小学校の同窓会しかない。
だから自分で井戸を掘らないといけないんだ」と言った。つまり、自分は金権政治をやるしかないのだというわけです。それで他の政治家の面倒も見る。社会党の政治家にもお金を渡していたし、その政治家が裏切っても怒らない。支持が増えるのは当然です。
当時福田派に属していた亀井静香は、「田中派は軍隊だ」と評しました。角栄の言うことは聞かなくてはいけないが、選挙のお金の面倒も見てくれる。一方、福田派は単なるサロン。福田は何もしてくれないから、党の役員や大臣になりたければ、角栄に頼みに行かなくてはいけないと。
ところが、石油ショックを契機に、国民が金権政治を大批判するようになり内閣の支持率は低下、翌1974年7月の参院選でも自民党は大敗を喫しました。そして、その年の12月に角栄は内閣を総辞職します。
石油ショックは、ロッキード事件にもつながっています。当時、日本は石油の供給をアメリカの石油メジャーに依存していた。そんななか、中東諸国はイスラエルの味方をするアメリカやその同調者には石油を売らないと宣言したのです。
角栄は日本がエネルギーで自立するために中東諸国やソ連に接近した。これにアメリカが激怒し、ロッキード事件で角栄を失脚させたというのが私の見立てです。現に、当時アメリカの国務長官だったヘンリー・キッシンジャーは「そんなことはアメリカが絶対に許容しない」と、角栄に直接、強く警告しています。
私はロッキード事件が発生した1976年の7月に雑誌『中央公論』に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」を発表して、その顛末を書きました。それを角栄が読んで信用してくれて、1980年12月に初めてインタビューすることができました。