「工場が…工場が燃えている!」九州の中小寝具メーカー、オイルショック時に見舞われた〈危機的状況〉

「工場が…工場が燃えている!」九州の中小寝具メーカー、オイルショック時に見舞われた〈危機的状況〉
(※写真はイメージです/PIXTA)

九州の寝具メーカーとしてビジネスを展開する企業のルーツは、戦後の復興期に設立された特殊紡績会社でした。特殊紡績の取り扱いを経て綿と脱脂綿製造を開始して以降、高度経済成長期の波に乗って順調に業績を伸ばしていましたが、そこで大変な災難が降りかかります。年末の寒い日、約60メートルのラインが並ぶ主力工場が火災に見舞われ、焼け落ちてしまったのです。原材料はもちろん、最新鋭の機械がすべて使用不可能となりました。

戦後日本の復興と歩みとともに、会社も成長

寝具業界には次々と変化の荒波が押し寄せてきました。私の父であり、創業者である梯禮一郎は、幼少期から家業の綿工場を手伝い、熱心に綿の研究をしてきました。1941(昭和16)年に会社を起こしましたが、直後に軍隊に召集されて出征します。帰国したときには、その会社は国によって廃業させられていました。

 

世の中は敗戦後のとにかく物資が乏しい状況で、人々が着る衣服を作ろうとしても肝心の糸がないという状態でした。古い布団の綿をもってきて、これで糸を作ってほしいと頼まれることもあったようです。それがヒントとなって特殊紡績業を始め、当社の前身となる「亀王製綿所」を立ち上げました。

 

特殊紡績というのは、いわゆる「くず綿」から糸を作るという文字どおり特殊な紡績です。「せめて作業着、タオル一枚だけでもなんとかしてあげられないものか」という気持ちからのスタートでした。戦後の何もかも不足していた時代に特殊紡績の仕事は軌道に乗り、その後織物縫製へも進出しました。

 

1954(昭和29)年、父は工場を吉井町へ移転したことを機に特殊紡績をやめ、脱脂綿の製造を始めました。この頃になると世の中も安定してきて人々は上質なものを求めるようになっており、特殊紡績はその役目を終えたと判断したからです。

 

1957(昭和32)年に綿と脱脂綿製造を二本柱とした「りゅうぐうわた株式会社」を設立して、私が生まれた昭和30年代には全九州に販売網を確立していきました。

 

新工場の竣工出発式(1964年)
新工場の竣工出発式(1964年)

日本で東京オリンピックが行われた1964(昭和39)年には現在の地に新工場を建設し、日本の高度経済成長期と足並みをそろえるかのように業績を伸ばしていきました。

 

ところがそうして軌道に乗ってきた1966(昭和41)年、工場が一度目の火災に見舞われます。焼け落ちた工場は、製造工程のなかでも準備作業をする部分でした。

 

しかし社員が一丸となりこれを機にレイアウトを使いやすく改善するなどの工夫も加え、火災に遭う前の年と比べて売上を5割も伸ばしたのです。

 

その後父は生来のものづくり魂を発揮し、不織布の研究・開発を成功させてさらに業績を伸ばしていきます。

 

田中角栄氏の「日本列島改造論」が国内を席巻していた1972(昭和47)年、不織布の売上が伸びてきたことを受けて、社名を現在の「龍宮株式会社」に改めました。そして父は全国市場への販路拡大を目指して、日々西へ東へと駆け回っていました。

 

このように苦境に立たされても持ち前のバイタリティで活路を見いだしてきた父ですが、あるとき働く意欲がなくなり、さらには生きることへの気力まで失いかけたことがありました。

 

当時の本人の日記には「もういつ死んでもいい、人間はこんな虚脱感のときに自殺するのかもしれない」とまでつづられています。

 

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一品勝負 地方弱小メーカーのものづくり戦略

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梯 恒三

幻冬舎メディアコンサルティング

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