ソ連型社会主義経済の労働価値説の矛盾
労働の投入量は、費やした人の数と時間で測るしか方法がないということで、延べ何人を何時間投入したかが求められます。例えば鉄鉱石や石油は掘り出すコスト、人手は当然かかります。それから機械を投入しますが、その機械をつくるのにどれぐらい人が携わったかとか、要するにすべて人間に帰結するわけです。
「人の労働こそがモノやサービスの価値を生み出す」という考え方は哲学としては成り立つと思いますが、これで経済を動かすことは結局できなかった。それは利益動機が働かないからです。人間は欲望の動物だから「これでどれだけ稼げるか」、あるいは資本家や企業は「これだけ人を使ってどれだけ儲けるか」と考えて将来に向けて投資行動を起こします。
それが進歩をもたらすのですが、ソビエト型社会主義経済はそれを否定してしまいました。そうなると国民は、しょうがないから決められた労働に従事して、適当にしか働かないという状況になってしまいます。
生産性は当然落ちますし、経済成長はもともと否定していますから、経済はどんどん行き詰まり閉塞化していって、なかで暮らしている人たちは大変な思いをすることになります。需要に即した供給ができなくなっていき、食料品や衣料品などの日用品まで、行列しないと手に入らなくなる。ソ連では崩壊するはるか前から、そんな様子がよくテレビで報じられていました。
さらにもうひとつ、無駄な生産ばかりやってしまうということがあります。要するに投入量さえ多ければいいというわけですから、最後は生産物の重量でモノの価値を算出していました。消費需要を無視し、「たくさんつくれば高く評価される」「国家計画通り何トンつくったから、これでよし」というふうになる。
資本主義市場経済では、モノの価値は市場原理、需要と供給の関係で決まります。これは競争があってこその話です。つまり、より高い品質のものをより安く売らないと買ってもらえないと、供給側は皆努力します。それによって適切な値段に収斂していくのです。
だから同じような商品がほぼ似たような値段になっています。
例えばペットボトルのお茶、だいたい各メーカーほとんど価格は変わりません。メーカーはすごい努力をして、いいものでありながらも安くなる。だから、消費者の利益にも繋がっていくということになるのです。
それがソビエト型社会主義経済だと、不味かろうがなんだろうが「ほら、これだけ作ったんだから、お前ら飲め」ということになってしまう。実際、旧ソ連のビールは瓶のなかに虫が入っていたり、気が抜けていたりと、滅茶苦茶な品質管理でしたが、それが平気で流通され、店頭に並んでいました。
競争がないから、品質の向上への努力も何もない。物品の横領などインチキをやったら職場から追放するとか、監督者がクビになるとか、シベリア送りになるとか、罰によってしかコントロールできない状況です。
いずれにしても、非効率であり、人々の生活水準を向上させることが不可能で、なおかつ無駄が多いわけです。