頼朝がリーダーとして認められた瞬間
■「鎌倉殿」と御家人
鎌倉に帰る途中、相模国の国府でのこと。
東国のボスたちが頼朝のことを“真のオレらのリーダー”と認めたのは、このときかもしれません。
頼朝は東国のボスたちに本領安堵 、すなわち所領の保障を約束したのです。
〈みなは仲間であり、味方である。源氏がみなの土地を奪うことはない。安心してよい!〉
これだけではありません。さらに東国ボスの宿敵だった北の佐竹氏を攻め破り、みんなに論功行賞を行いました。佐竹氏が支配していた常陸国を含む一帯の土地を、新恩給与として分けあたえたのです。
〈功績を挙げたものには、敵から奪った領地をあたえる。国司や荘園領主の許可など必要ない。わたしが独断で決める!〉
東国ボスたちにとっては何にも代えがたい喜びでした。もう国司や荘園領主の顔色をうかがう必要はありません。自分たちの立場はニューリーダー「鎌倉殿」が保証してくれるのですから。
こうして家人の東国のボスたちは、「鎌倉殿」の御家人となりました。御家人は「頼朝殿」のために戦うという奉公をし、「頼朝殿」はその見返りとして御家人に本領安堵・新恩給与という御恩をあたえたのです。
「鎌倉殿」と御家人の封建的主従関係が成立したのでした。
1180年のこのときをもって、「鎌倉殿」の誕生、鎌倉時代の幕開けとみる専門家も少なくありません。
一方、都では清盛の時代が終わりを告げようとしていました。福原遷都が思うようにいかず、清盛は再び京に戻りました。しかし、人心は離れるばかり。そこに病魔が忍びよります。
■武家政権の土台づくり
鎌倉では“東国武士の新都造営計画”が着々と進んでいました。
頼朝の住居兼執政の場となる大倉御所の完成も間近。北条時政・義時親子や御家人となった東国のボスたちの多くも、鎌倉に居を移すことになりました。
武家政権の統治機構づくりに着手するなか、頼朝は意外な人事を発表します。
頼朝が最初に開設した機関が侍所でした。その侍所の別当に和田義盛を指名したのです。創設時から従った北条時政や主力3選手の三浦義澄、千葉常胤、上総広常を差し置いての大抜擢でした。
武士社会の生き方や心構えを表す言葉に「弓馬の道」があります。御家人のなかで「弓の名人」として通っていたのが、和田でした。和田は、その道に長けていたのです。戦場での武勇・戦功の面でも、頼朝は和田を高く評価していました。
和田は三浦義澄と同じ三浦ファミリーですが、義澄より20歳も年下で、頼朝と同じ1147年生まれでした。しかし、かねてから頼朝に御家人の統率役を志願していたといわれます。まだ若いものの、頼朝はその実力と胆力の強さから、和田を「四番バッター」に据えたのでした。
さらに、侍所の次官には、石橋山の戦いで頼朝に恩を売ったとされる梶原景時を指名しました。「四番バッター」が不発でも、それを補い、しっかり結果を出してくれる。若手の脇を固める梶原は頼りになる存在でした。
これに不満タラタラな御家人も多かったことでしょう。頼朝の義理の父にあたるベテラン選手こと北条時政の心中も、さぞかし複雑だったに違いありません。
和田の抜擢については、北条寄りの歴史書『吾妻鏡』の記述も、〈大した器量もないのに選ばれやがった〉と不満げです。
しかしながら実際、合戦での北条時政・義時父子の存在感は薄く、『吾妻鏡』にもその活躍を伝える記載はあまりありません。
一方で『吾妻鏡』は、この一連の儀式において、〈東国の者がみな頼朝を「鎌倉の主」と認めた〉と記しています。『吾妻鏡』も、頼朝を「鎌倉殿」と“公認”したのです。
なお、武士政権の本格的なしくみが整うのはもう少し先、平氏を滅ぼした直後の1185年のこと。頼朝は国ごとに守護を、荘園・公領ごとに地頭を置きます。
歴史教科書では、このときをもって「鎌倉幕府の成立」とする見方が強くなっています。
大迫 秀樹
編集 執筆業