親の面倒を見ることができる子どもは幸せ
そういえば、私は執筆のために、よくファミリーレストランを利用するのですが、早朝のファミリーレストランは、高齢期の男性であふれかえっています。多くの男性は一人で朝食をとりながら、新聞を読んだり、モバイル端末をいじりながら、小1時間をレストラン内で過ごしています。ここは老人ホームだった? と錯覚さえ起こす風景が、そこにあります。
さらに言うと、毎週必ず、同じ席に同じ人が座ります。そして、何カ月もすると、その人は来なくなります。入院かな? 老人ホームに入居したのかな? それとも亡くなったのかな? という妄想が、職業柄湧き上がってきます。
話を戻します。初めから、一人で生きていこうと決めている人とは、その覚悟にも違いがあると思います。つまり、最初からおひとり様という人の場合と、もともと家族がいた高齢者が、失う経験を通して家族がいなくなっていくということとは、話が違うように思えるのです。家族とともに長年生活してきた人は、最後まで家族という形にこだわるのではないでしょうか。
立場が変われば、考え方も変わります。当たり前の話です。私自身も、子供のころは、親の存在は疎ましく「何のためにいるのか?」などと感じていました。しかし、自分が仕事をするようになり、収入を得るようになってからは、ひとりの人として対等に親と付き合うことができるようになったと記憶しています。さらに、親が高齢になり、いろいろなことが徐々にできなくなると、自分がしっかりしなければならない、という気持ちが不思議と湧いてくるものです。
人の一生とは面白いもので、子供として生まれ、親に生活の面倒を見てもらいながら成長し、やがて親と対等な立場になり、最後は、親の面倒を見る立場になっていく。こう考えると、親の面倒を見ることができる子供は、幸せな子供なのかもしれません。「親孝行、したい時に親は無し」。昔の人は、うまく表現したものです。
記憶が確かではありませんが、作家の永六輔さんの著書に「子供叱るな、来た道だから。年寄り笑うな、行く道だから」という記述があったと記憶しています。まさに、その通りだと思い知らされます。
小嶋 勝利
株式会社ASFON TRUST NETWORK 常務取締役