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「こんなことして。本当にいい死に方しないわよ」
鍵の受け渡しは、同時に立ち退き料のお支払いの日でもあります。
立ち退き料は振り込みではなく、現金で手渡して欲しいという張田さんの希望でした。私は家主のところからお金を預かり、物件に向かいます。今まで何回この道を歩いたでしょう。いつもと比べものにならないくらい、心は躍りました。
私の手にはラッピングされたバスタオルがありました。張田さんの新しいお家で使って欲しかったのです。
約束の時間より10分ほど前に行ったのですが、すでに張田さんは待っています。いつもの険しい顔の張田さんでした。
「遅い」
睨みつけるような目でした。鍵を開け、部屋の中の確認。そして書面を交わし、張田さんはお金を数えます。
何ひとつ荷物が残されていない部屋。結婚してここに住み、お子さんが生まれ、そして家族構成も変わり、それでも人生の大半をこの部屋で過ごしたのです。いろいろな思い出が詰まった部屋なのでしょう。
「お引っ越しで、お疲れが出ていらっしゃいませんか?」
私は、張田さんの怒りスイッチを入れてしまったようです。
「疲れてない訳ないでしょう。こんなにちゃんとしてきたのに、追い出すなんて家主もいい死に方しないわね」
そこから延々と、いつもの2年前からの恨みつらみをぶつけられてしまいました。もうここまで来たのだから、お金もらって鍵返して、これで終わりでいいじゃないか、そう喉元まで出かかるのをぐっと抑えます。私は何とかこの重苦しい空気を変えたくて、持って行ったプレゼントを渡そうとしました。
「これ良かったら、新居で使ってください」
張田さんは、見向きもせず紙袋を押し返します。
「バスタオルなんです。とても肌触りが良かったから」
一瞬の沈黙の後、張田さんは、
「いらないって言ってるでしょう。そもそもあなたは、司法書士なの? 証明しなさいよ」
そう怒鳴りながら、私が出した身分証を写真に撮り、
「こんなことして。本当にいい死に方しないわよ」