歴史の転換点は、常に物流業界の転換点でもあるといえます。グローバル化の進展、テクノロジーの開発競争が繰り広げられる現在においても、当然のごとく社会経済の下支えの役割を担うことを求められ、その要求に応えています。日本の物流業界がどのような経緯を経て今の姿となったのか、戦後日本を背景に紐解いていきます。

昼夜を問わず物資を運び、敗戦後の日本を支えた物流

戦争に敗れ、焦土と化した日本――。

 

夏の抜けるような青空のもと、景色一面が焼け野原となり、瓦礫と粉塵に覆われたその世界を見て、当時の人々は何を思ったのでしょうか。

 

ぼろぼろになった日本を、さらなる悲劇が襲います。

 

1945年9月17日、鹿児島県の枕崎付近に、916.1ヘクトパスカルという強力な台風が上陸。終戦後わずか1ヵ月という最悪のタイミングで来襲した「枕崎台風」により、戦争時の伐採で大雨に弱くなった山々で土砂災害が発生、原爆被災直後の広島での被害が特に甚大となりました。

 

建物の多くが完膚なきまでに破壊された大都市では、路上生活者が街に溢れていました。国からの配給も遅配や欠配が続き、食糧事情は戦中よりさらに悪化していました。

 

極端な物資不足から物価が上昇し、ハイパーインフレとなりました。闇市が各地に現れ、少しでも安く食糧を買おうとする人が押し寄せて繁盛したといいます。かろうじて戦火を逃れた、都会から地方へ向かう列車には、農村部の食糧を求めた人々がすし詰め状態となりました。

 

そのように混沌とした社会のなかで必死に働いていたのが、運送業者です。

 

「自分たちがやらねば、誰がやるのか。今、働かずして、何が運送屋だ」

 

そんな心構えで、道路網がずたずたに寸断された状況でも、人々の生命線である食糧の運搬を始め、生活必需品や復興資材を、昼夜を問わずなんとか運び続けていました。

 

1945年10月に、陸運統制令が廃止された時点での運送の統合会社は227。終戦時には日本通運への統合政策のすべてが白紙化したことで、大浜通運株式会社も含め、日本通運に統合された会社からは統合解体の声が上がりました。

 

そうして独立の機運こそ高まりましたが、多くの運送会社では、肝心のトラックがありませんし、ガソリンも手に入りません。大浜地区でも時代が逆行し、荷馬車や大八車が再び用いられるようになりました。

 

ただ、できるだけ早く社会インフラをよみがえらせるというGHQの方針から、車はトラックに限って生産許可が下り、軍事用トラックを民間用に改良した国産トラックが、少しずつ生産されるようになっていました。

 

1951年には、戦時中の自動車交通事業法に替わって「道路運送法」が公布。GHQの強い要請により整備されたこの新法においては、官僚統制を弱める狙いから、現在の地方運輸局や陸運支局にあたる道路運送監視所を設置して陸運行政の一本化を図るとともに、許認可を行う道路運送委員会が民間有識者によって新設されました。

 

(著者提供)
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※本連載は、鈴木朝生氏の著書『物流の矜持』(幻冬舎MC)より抜粋・再編集したものです。

物流の矜持

物流の矜持

鈴木 朝生

幻冬舎

大正3年、まだ大八車や馬車が物流の主な手段だった時代から、地域とともに歩み、発展を遂げてきた丸共通運。その歴史から、物流業界の変遷、日本の発展を振り返る。 丸共通運は大正3年に創業し、まだ大八車や馬車が物流の主…

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