コロナ禍で私たちの暮らしに多くの制約が生じるなか、日常を支える「物流」の重要性が再認識されています。人々の豊かで安定的な生活は、物流によって支えられ、維持されてきたといえます。本記事では、日本の経済発展の歴史と常に並走してきた、物流の歴史を紐解いていきます。

戦時体制に入った日本…自動車製造業が営業許可制に

1935年1月の時点で、戦時下への移行に伴い、鉄道省は小運送制度改革調査委員会を設置し、4000店以上ある運送会社の改革を検討していました。そして1937年、帝国議会が「小運送業法案」と「日本通運株式会社法案」を可決し、通運の新たな免許制度の実施と、半官半民の統括会社の設立を合わせて行いました。

 

そのタイミングで、近代の物流の歴史の担い手であった組織の一つが消滅します。

 

1928年にその名を国際通運株式会社へと改めていた旧内国通運が解散、66年の歴史に幕を閉じました。そして、その代わりに誕生したのが、国策会社「日本通運株式会社」でした。

 

実はこの頃、今や世界に名を馳せる自動車メーカー2社が誕生しています。トヨタ自動車と、日産自動車です。

 

1930年代の日本の自動車市場は、日本ゼネラルモーターズ、日本フォードの両社による組み立て生産の自動車で、ほぼ独占されていました。両社の日本進出以前から、陸軍省は国産自動車の生産を目指し、軍用トラック製造に対して助成を行っていましたが、その技術が確立し量産するまでには至りませんでした。

 

シボレーやフォードといった外国製の車は年々増加し、戦時下においてこれらの輸入がストップするリスクを考えれば、一刻も早く国産自動車の量産技術を確立する必要がありました。

 

(著者提供)
(著者提供)

 

こうした背景から、1936年5月に、国防整備と産業発展を目的とした自動車製造業の営業許可制である「自動車製造事業法」が公布されました。

 

そこで許可会社となったのが、すでに工場建設に着手し自動車の量産体制を整えようとしていた、当時の豊田自動織機製作所と日産自動車でした。

 

その一方で、日本ゼネラルモーターズ、日本フォードは厳しい状況に置かれました。生産台数の制限や輸入部品にかかる関税の大幅な引き上げなどの影響により追い込まれた両社は、トヨタ自動車や日産自動車との提携を模索しますが、合意には至らず、1939年に生産を停止しました。

 

1940年頃には、軍用トラックを中心とした自動車の国産体制がほぼ確立。戦争が本格化した1943年頃までは、順調に生産を続けていくことになります。なお1934年には、中心気圧911.6ヘクトパスカルという超大型の「第一室戸台風」が日本に上陸。高潮や強風による建物の倒壊などで、約3000人の死者・行方不明者が出ました。

 

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※本連載は、鈴木朝生氏の著書『物流の矜持』(幻冬舎MC)より抜粋・再編集したものです。

物流の矜持

物流の矜持

鈴木 朝生

幻冬舎

大正3年、まだ大八車や馬車が物流の主な手段だった時代から、地域とともに歩み、発展を遂げてきた丸共通運。その歴史から、物流業界の変遷、日本の発展を振り返る。 丸共通運は大正3年に創業し、まだ大八車や馬車が物流の主…

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