通運業界の構造を一変させた「通運事業法」
1949年には、通運業界の構造を変える新たな法案が公布されました。
それは「通運事業法」です。
この法律の施行は、通運の歴史に重大な影響を与えたため、少し詳しく解説します。
終戦を迎えた時点での全国の通運業者は、日本通運に加え、各地区統合会社93社、そのほか小規模店140社に集約されていました。これらの業者は、1937年に制定された「小運送業法」および「日本通運株式会社法」による法的規制と、陸運統制強化のための日本通運への企業統合により、ほぼ「1駅1店」体制となっていました。
しかし戦後のGHQによる統治では、非軍事化と民主化が基本理念とされ、軍による統制色を一掃すべくさまざまな施策が打たれました。終戦直後から経済民主化政策の一環として産業界の独占的体制を変えるべく、持株会社整理委員会を発足し、財閥解体や巨大持株会社の資産凍結などを進めていました。
非軍事化、民主化は世論の求めるところでもあり、通運業界においても「統合前の自由な姿に戻すべき」という批判の声が上がりました。
世論に押される形で、運輸省は1946年に小運送業整備方策要綱を発表。免許制度や現行の運営体制は維持するとしつつも、日本通運の運営の抜本的改革を指示しました。
運輸省としては、「1駅1店」体制は、小運送業法による免許制からできたものではなく、過去に繰り返されてきた零細業者の乱立に対する必然的な選択であるという認識だったようです。
運輸省の指示を受けた日本通運は直ちに、役員の総辞職、組織改正といった改革を断行しました。運輸省の側も、日本通運に対する監視を緩和し、経営を委ねる方針を示しました。
そうした一連の措置をもってしても、運送業界の不満は収まりませんでした。
そんななか、1947年4月に「独占禁止法」が公布され、7月に公正取引委員会が発足。さらに12月には「過度経済力集中排除法」が施行されていきます。過度経済力集中排除法は、財閥解体などの対象になることを免れた巨大企業による独占を防ぐものでした。日本通運は、1948年にこの法律の適用対象企業に指定され、審査結果によっては解体も十分にあり得る危機的状況となりました。
ただ、当時すでにアメリカとソ連・中国の対立が激化しつつあり、アメリカは日本をアジアにおける共産主義国家への対抗力としたいと考えるようになります。GHQの占領政策が「巨大企業の排除」から「企業を活用して日本経済の自立化を促す」という方向に転換していったのも、そのせいです。
結果的に日本通運に対する集中排除措置の内容は、駅荷役施設などの譲渡、保有株式の処分だけという緩やかなものになりました。通運業界からの批判にさらされていた運輸省は、日本通運が過度経済力集中排除法の適用を受けたのを決定打として、これ以上の「1駅1店」体制の堅持は難しいと判断しました。
そして1948年、「現行の1駅1店体制を速やかに撤廃し、小運送の複数制を実施する」とし、複数制の基本方針として「小運送複数制要綱」を発表したのです。この要綱では、「新規免許は既存業者のほか、当面は1業者のみ」「新規免許のための新たな基準を設定、免許審査の機関を設立」といった内容が述べられていますが、それらは過去の零細業者乱立による混乱を繰り返さぬためという意味合いが強かったようです。
要綱に基づき、運輸省は1949年3月19日から、5回にわたり複数化措置を進めていきました。『小運送十年史』(日本通運)には、1951年4月1日時点での複数化の実施状況が記されています(図表1参照)。
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