新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、いまなお外出自粛が求められているなか、宅配サービスの利用が急増し、多くの人が物流ネットワークの重要性を痛感しています。しかし物流は昔から、人々の生活と経済を下支えする重要な役割を担ってきたのです。本記事では、1914年の第一次世界大戦から1923年の関東大震災までの激動の時代における「物流」の歴史を紐解いていきます。

駅前に店さえ構えれば、自由に始められた「運送業」

1914年、第一次世界大戦が勃発して世界が混沌とするなか、日本では東京駅が完成し、大変な賑わいを見せていました。戦争がもたらした軍事特需によって日本の経済は好転し、モノの輸送量も増加していきました。

 

鉄道貨物の輸送量も増える一方で、国鉄は機関車の増強や停車場の拡張に追われました。

 

そこで一斉に現れたのが、小規模の運送業者でした。1916年の時点で、1610の鉄道駅に対し6500もの運送業者がつき、1駅に何軒もが軒を連ねていました。当時は、「手車1台、天秤棒1本」といわれ、駅前に店さえ構えれば、それ以外の資本も人手もほとんどなしに、自由に運送業が始められたのです。

 

現代よりもはるかにモノの少ない時代ですが、自由な空気の元、人々の胸には未来への

豊かな希望があったでしょう。

荷馬車に勝てないトラック、普及への道のりは遠く…

1914年に始まった第一次世界大戦は、日本の経済構造に大きな変化をもたらしました。戦争を機に、農業中心だったそれまでの生産活動が工業中心へと移行したのです。

 

特に製鉄業、造船業、化学工業などが顕著に伸び、製鉄は戦前の4倍以上、造船は14倍以上、化学工業はほぼゼロだったところから染料、窒素、ソーダ、薬品などいずれも自給自足体制が整うまでに発展しました。

 

自動車の台数もどんどん増え、1917年から1919年にかけては、前年度比50%で増加していきました。ちなみに第一次世界大戦が収束した1918年時点の自動車の数は4533台、うち貨物車は42台だったといいます。

 

なお1919年には、大和運輸株式会社(現在のヤマト運輸株式会社)が創業。それまでの家業であった八百屋からトラック業に転身し、トラック輸送を開始しています。創業者である小倉康臣の著書『あゆみ』では、当時のトラック輸送の運賃について「荷馬車が1日6、7円であったのにくらべてトラックは17、18円もする有様で、まだまだ、ぜいたくな輸送と考えられていた」と述べられています。

 

1919年の貨物自動車数は全国で204台、翌年には644台と一気に増加しますが、そのほとんどは自家用車であり、トラック業界はいまだニッチな存在でした。スピード面でこそ荷馬車を圧倒していましたが、大型トラックでも当時の積載量は2トンほどで荷馬車に劣り、料金的にも荷馬車のほうに大きな利がありました。「とにかく急ぎで荷物を届けよ」などというオーダーは少なかったであろう、のんびりした時代のこと。陸送においてはまだまだ荷馬車の黄金時代であったといえます。

 

(※写真はイメージです。/PIXTA)
(※写真はイメージです。/PIXTA)

 

この時期に、運送業者に大きな影響を与えたのが、鉄道局が「運送取扱人公認規定」を公布、推進したことです。

 

当時、鉄道院から省へと昇格した鉄道省が、雨後の筍のように乱立する運送業者と、駅での混乱への対応にしびれを切らし、将来的な「各駅の中小運送業者の一本化」を見据え、公認制度を設けたのです。

 

運送取扱人公認規定により、公認業者でなければ基本的には駅での運送業ができなくなりました。

 

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※本連載は、鈴木朝生氏の著書『物流の矜持』(幻冬舎MC)より抜粋・再編集したものです。

物流の矜持

物流の矜持

鈴木 朝生

幻冬舎

大正3年、まだ大八車や馬車が物流の主な手段だった時代から、地域とともに歩み、発展を遂げてきた丸共通運。その歴史から、物流業界の変遷、日本の発展を振り返る。 丸共通運は大正3年に創業し、まだ大八車や馬車が物流の主…

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