マーケティング=人為的に問題を作り出す装置か
「さらに、成長の社会はもっと深い意味で豊かな社会とは正反対だということができる。財を生産する社会である前に、この社会は特権を生産する社会なのである。そして特権と貧困との間には社会学的に規定しうる必然的な関数が存在する。どんな社会においても貧困を伴わない特権は存在しない。両者は構造的に結びついている。したがって、成長はその社会的論理からして、逆説的にではあるが、構造的貧困の再生産によって定義されるわけである。」
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
「成長の限界」に関する反論の1つ目、すなわち「イノベーションによって成長の限界は打破できる」という主張に対しては、イノベーションはむしろ格差拡大という問題を生んだものであり、市場万能主義から、より社会民主主義的な方向へと舵を切るべきだということが筆者の考察です。ここからは反論の2つ目、「マーケティングによって需要の飽和は延期できる」という主張について考察してみましょう。
物質的欲求の不満が解消された、というのは人類全体にとって喜ばしい事態ですが、局所的には困った問題を引き起こします。先述した通り、ビジネスというのは常に「問題の発見」と「問題の解消」の組み合わせによって成立しますから「問題」がなくなってしまうと、その「問題」を解消することで生計を立てていた人の仕事がなくなってしまうのです。
さてそうなると、1つのアイデアとして「人為的に問題を生み出せないか」という考え方が、当然に生まれてくることになります。すでに満ち足りている人に対して「まだこれが足りてないのでは?」とけしかけて枯渇・欠乏の感覚をもたせることができれば、新たに問題を生み出すことで「ゲーム終了」を先延ばしすることができます。これがマーケティングの本質です。
経営思想家のピーター・ドラッカーは、企業の目的は1つしかなく、それは「顧客の創造」であるとした上で、さらにその活動は「マーケティング」と「イノベーション」の2つに支えられる、と言い切りました。
この言葉自体はよく知られていますが、これを先述した「問題の開発」と「問題の解消」という枠組みで考えてみれば、実は同じことを言っているということがわかります。つまり「問題の開発」がマーケティングであり「問題の解消」がイノベーションだということです。
マーケティングという用語自体は20世紀の初頭に生まれていますが、今日の私たちが用いているのと同様の概念として定着したのは、1960~70年代のことです。今日でもビジネススクールのマーケティング科目の定番教科書として用いられているフィリップ・コトラーの『マーケティング・マネジメント』の初版がアメリカで出版されたのは1967年のことでした。
この1967年という年に不思議な符号を感じないわけにはいきません。放っておいても社会が次から次へと「解いてほしい問題」を投げかけてくれているのであれば、マーケティングは必要ありません。
マーケティングが体系的なスキルとして社会に求められるようになった、ということは、事業者みずからが問題を開発しなければ、新しい欲求を生み出すことができなくなったことの証左でもあるのです。
さまざまな指標から私たちの世界が「高原への軟着陸」というフェーズに入りつつあることはわかりますが、18世紀以来、200年にわたって続いてきた経済や人口の成長率が、はじめてそのカーブを緩め始めたのが1960年代の後半です。
まさにこの時期においてビジネスの歴史的役割が「終幕の序章」に差し掛かっていたのだと考えれば、同じ時期に「人為的に社会の欲求・渇望を生み出すための技術体系」であるマーケティングが、いわば「ビジネスの延命措置」として産業社会から強く求められ、そのようなスキルをもった人材が労働市場において高く評価されたのは当然のことでしょう。
山口周
ライプニッツ 代表